境界線に立つ私が反省的記録を綴ることの意味と改めてその理由
年内最後の記事となります。
これまで、東日本大震災(以下、震災)からの10年を通じて、私が今心の中に抱いていること(「反省的」記録を綴る理由)の三つ
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支援の在り方に関する反省
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復興に対する疑問
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未来への懸念
について、その概要を綴ってきました。
①では、私自身の支援の経験・現場で見てきたことを通じて、“特権”や“権力”の無自覚さ、社会の抑圧構造などに孕む支援や復興の暴力性、「被災地」「被災者」の力を奪う可能性、また「善意」に関する問いを持つ必要性などについて言及しました。
②では、これもまた私自身の目の前に広がっている「復興の在り方」から「誰のための復興」となっているのかという疑問、そこに見える資本主義の限界や民主主義の危機について触れました。
③では、上記のような支援や(現在進行形で進む)復興の現場を目の当たりにしてきて、かつ、これまでの歴史や人権に目を配る中で、今、「未来に何が残されようとしているのか」「何が残されなくなってしまうのか」といった懸念を綴りました。
以上、三点の問題意識ないし危機感から、theLetterを通じて反省的記録を綴ろうと思い今に至っています。
さて、これからは私の実際の体験や災害現場で起こることについて様々なテーマで綴っていこうと思っていますが、その前にひとつ言及しておく必要があることをここに書いておきたいと思います。
それはいわゆる“「被災者」(当事者)ではない私”がこうしたことを書くことの意味とその理由について、です。
※以下、「被災者」のことをここでは「当事者」と統一させていただきます。

私にとっての境界線の場のひとつ
当事者だからこその「言えない」に耳を傾けてきてー「境界線に立つ」の意味―
【自己紹介】でも書いたように、私は海なし県である埼玉県で育ち、震災を機に三陸沿岸部「被災地」に移り住みました。
震災後の2年間は埼玉から通い続ける日々を過ごし、その後8年を「被災地」で実際に生活をしてきました。
こうした「通い」と「生活」の経験を持つ私は「被災地」の内側と「被災地」の外側(厳密にはこの表現には説明や定義を設けたりする必要があると考えていますがここでは便宜上割愛させていただきます)を出入りし続けた存在だということができると考えます。
theLetterのタイトルにもある「境界線に立つ」という文言は、こうした物理的な「被災地」の内と外と(にある線)を「出入りする存在」であったということと、「当事者ではないけど、当事者の住む世界にいる」ということを意味しています。
※上記「当事者ではないけど、当事者の住む世界にいる」についても、厳密には説明や定義を設けたりする必要があるのですが、省略させていただきます。
そうした「境界線に立つ」私は、これまで境界線に立っているがゆえに聞こえる当事者の声を耳にさせてもらってきたように思っています。
たとえば、③【未来への懸念】で震災後に多く聞かれる哀話について言及しました。これらの多くはあらゆる「外側」に対する言葉として機能していると考えられ、同時にそれは「当事者だから言えること」である一方で、「当事者だからこそ言えないこと」(内側への言葉)が内包されているように思われます。
具体的なことは今後綴っていきますが、このことは災害後に多く見られる現象(とだけで語れるものではないですが)であり、私は「境界線に立つ」がゆえに「当事者だからこそ言えないこと」(内側への言葉)の(あくまで)側面に触れさせてもらう機会を得てきたように思っています。
しかし、震災から月日が経つにつれ「そうした言葉」は力を奪われ、「教訓」として残されなくなっていっているように感じています。「そうした言葉」は災害という特殊な状況下で普遍的に起こりうるであろうことであり、その人たちの生きる・生きた証と言うこともできる言葉であるにも関わらず、社会の抑圧構造はそれらを奪っていきます。
私はその抵抗として、できる範囲で「そうした言葉」を可視化していきたいと考えています。
このことに対して「当事者ではないくせに語るな」と言われることも、「代表のように語るな」「代弁者にでもなったつもりか」などといったお叱りも受けるだろうことも承知しています。
また、私のような経験をしている人は無数にいるため、私なんかよりもはるかに経験や知見をお持ちの方がいることも重々承知しているため、それこそ「代表者」であるかのように語るつもりも毛頭ありません。
それでも「当事者だからこそ」語れない・声を上げられない人と出会ってきた身として、その声を埋もれさせたくはないと考えています。
マジョリティ特権を多く有している身としての自覚
ここまで私は「境界線に立つ」がゆえに「当事者の言えないこと」に触れることができたであろうと書きました。それを可視化していきたいと思い、theLetterを綴ることに至ったと書きました。しかし、ここで強調しておきたいことは、それが確かにあったであろう一方で、「境界線に立っているがゆえに聴くことができなかったこと」も多くあっただろうということです。これは「立場」だけではなく、私の「マジョリティ性」ゆえに聴くことができないものもあったということでもあると考えています。
“マジョリティ特権”については、私の別のブログ(主にはてなブログ)の方で頻繁に使っているためここでは省略しますが、私は「被災地」においてマジョリティ特権を多く有している存在であることを自覚しています。自覚させられ続けてきたと言う方が正しいかもしれません。
「被災地」に通っていた私には活動が終われば帰れる家があり、帰れば見慣れた風景がありました。無論、これは「生活者」となってからも同様です。いつでも「逃げられる」場所があったのです。
また、震災「被災地」である三陸沿岸部はいわゆる「地方」でもあり、教育格差をはじめとした様々な社会的な格差がある地域です。大学院まで進学することにさほどの労なく済んだ私には明らかな“特権”がありました。(サバイバル的な意味における「生きる」ではなく)現代社会を「生きる」うえで、自動ドアを多く有しているのは私です。
こうしたことを私(特に支援者であるからにはなおのこと)は自覚しなければならず、“マジョリティ特権”を多く有するからこそ「聞くことができない」こともあると知らなければならないと思っています。同時に、“マジョリティ特権”を多く有しているからこそ、住民の目線を学び、考え続けなければならないと思っています。
宮本常一は『宮本常一 著作集25』の『村里を行く』でこのように言います。
民衆というものは賢く、またたえず前向きにあるいているもので、その未来をあやまることはないものだと思う。もしあやまちを犯すものがあるとすれば為政者であるとか、知識人といわれる人びとではないだろうか。その人たちが民衆からはなれ、あるいは民衆の本当の姿を見失ったときにあやまちを犯すことになるのではないかと思う。
私は(おそらく)「被災地」において、上記で言うところの「知識人」(知識を得る機会に恵まれた特権を有している人)という立場であると考えます。そうした立場として、住民の姿を見失ってはいけないのです。少なくとも、そのことに無自覚でいてはいけないのです。
theLetterを通じて私が震災について綴るということは、私にとっては“マジョリティ特権”を有する立場としての「責任」、この震災に深く関わった身として果たすべき「責任」のひとつと思っています。「当事者」ではありませんが、私はこの「責任」を(少しの喜びをもって)果たしていきたいと思うのです。
私がtheLetterで綴る先に願うことー「わかりえないことをわかろうとすること」ー
この記事の最後に、theLetterで綴っていくことを通じて私が何を願うのかについて書きたいと思います。
これまで繰り返し書いているように、theLetterでは、私が見聞きし体験してきたことを「反省的」な視点で綴っていく予定です。
大事にしたいことは「境界線に立つ」という立場と“特権”や“権力”、社会的な抑圧構造の視点そして、住民の姿と書いたように「当事者」の方から教わったことを極力(メモを残していたものもあればそうではないものもありますが)その人の言葉(など)のまま綴っていくことです。
その際には、できる限り、読みやすい形式・文体にしたいと考えています。それは少しでも多くの(多様な)よき人と共有できればと願うためです。
震災について綴られた書籍はこれまでに数多く出ています。
大切な内容が書かれた書籍も多くあるように感じていますが、一方で「これは誰が読むことを想定しているのだろうか。誰のために、誰に届けたいと思っているのだろうか」と思う書籍にも出会ってきました。
難しい言葉を多く使い、学者が学者のために書いたようなものも見られ(その必要性を否定はしませんが)そのことには正直疑問を抱いています(柳田国男もかつてそうした批判をしていたように記憶しているのですが忘れてしまいました。文献が見つかれば更新します)。
私は「当事者だからこそ言えないこと」を見聞きしてきた立場として、「当事者」にこそ届くように、そしてまた、すべての人が「支援者」とも「被災者」ともなりうる=「当事者」であるということを前提において、書いていたいと思います。
私の文章能力・経験や知識のなさもあって、あまりにつまらない内容と感じさせてしまうときや、読みにくいものとなってしまうこともあるかもしれません。
また、ベースには私自身の「反省的」な視点を入れていたいため、お恥ずかしいことや批判されるべき内容もあるだろうと思い、不快にさせてしまうこともあるかもしれません。そのことにつきましては、予めお詫び申し上げます。
しかし、そうした試みを通じて、少しでも「当事者」の方々が抱えてきた・抱えているものにそっと触れることができれば、そして、よき他者と、今後の防災や減災、中長期的な視点における災害(平時からの)対応の進展、公正な社会づくりへ共に歩んでいくことができればこれ以上嬉しいことはありません。
※私は現在フリーの立場であり、有料記事とさせていただくものもあることをお許しください。
様々な方からの応援はもちろん、ご批判(誹謗中傷やマウントなどではないもの)もいただけましたら、これもまた大変うれしく思います。こうした「無関心」からの脱却は、震災を大切に想うことにもつながると考えています。それはすなわち、「誰かのいたみを大切にする」営みであり、私が最も願うものとなります。
連続テレビ小説『おかえりモネ』では、医者である「菅波先生」が震災を経験したヒロインである「モネ」に対してこのように言う場面がありました。
あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています。
当事者ではない私は、震災後「被災地」に「通い」と「生活」を経験する中で、ずっと大切にし続けてきたことはこの「わかりません」(私の中では「わかりえない」という言葉がしっくりきています)という感覚です。
私は
「わかりえない中で、私は何をわかろうとするのか。わかりえない中で、私は何を感じることができ、感じることができないのだろうか。」
ということを常に考え続けてきました。
あまりにも「わかりえない」ことが多くあり、その圧倒的な事実から目をそらしては何かを見落としてしまうと感じていたためです。
その圧倒的な事実を前にしながら、私は揺れ・揺さぶられ続ける10年を過ごしてきました。
こうした10年を通じて深く実感しているのは、何かをよくしていくためには、よき第三者・境界線を想い動く存在がどうやら必要らしいということです。
震災に関して(「よき」となれたかは正直自信がありませんが)第三者・境界線を想い動く存在であった私は、「わかりえないけど、わかろうとし迷い揺れ続ける」存在が「当事者」に対してなんらかのよき影響を与えうることを感じてきました。もちろんそれは同時に、よくない影響を与えうることでもありますが、「わからない」中で「共にいること」(物理的なものに限らない)に何らかの価値があるように感じてきました。
それを今はうまく言語化することも証明することもできませんが、再び『おかえりモネ』の菅波先生(奇しくも漢字が一文字違うだけで私と「同じ名前です)の言葉を借りれば
深刻な問題に対処するには、当事者ではない人間のほうが、より深く考えるべきだと思うんです。
という言葉に近い感覚です。こうした営みが大切にされる社会にしていきたいと願って、theLetterを綴っていきたいと思います。
最後の最後に、これまでの文章と少し矛盾するようではありますが、今後私は生活拠点を「被災地」から移す可能性があることについて書いておきます。
宮本常一は著書『民俗学の旅』の中で、渋沢敬三からこのような言葉をかけられたと紹介しています。
ある地域、あるテーマについて集中的に詳しく掘り下げてゆくことは大事なことであるが、それ以上に、つねに全体観を持ち、広い視野から部分を見ることが必要である。
もともと私は一箇所に留まることがあまり好きではないということもあるのですが、「よき」存在になるためにも、様々な地域や暮らしに触れていたいと考えており、この言葉は私にとって大切な言葉となっています。
どのようにしたら「地域」や「社会」がよくなっていくのか(これが最大の防災減災でもある)を今後も考えながら、動き、綴っていきたいと思います。
一緒に考えてくださる方と多く出会えることを楽しみにしております。
今年一年、ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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