災害と写真
災害に関するテーマ記事。
ここでは『災害と写真』をテーマにし、自身の経験を踏まえて、考えたことをまとめました。
災害に関する「写真」を「撮る」こと、使用することの怖さ。そこにある「写真」の力とその暴力性について、感じていたことをまとめました。
ここでは『災害と写真』をテーマにし、自身の経験を踏まえて、考えたことをまとめました。
災害に関する「写真」を「撮る」こと、使用することの怖さ。そこにある「写真」の力とその暴力性について、感じていたことをまとめました。
大塚光太郎
2024.07.10
読者限定
これまで『theLetter』の記事の多くに災害に関する「写真」を使用してきました。
活動記録の記事にはなるべくその活動時に撮影した「写真」を使用し、テーマ記事にはそのテーマになるべく近いイメージの「写真」を、おかえりモネの記事(止まってしまっていますが…)はその回の舞台等の「写真」を使用してきたように思います。こうして書くと、さも当たり前のように災害に関する「写真」を使用しているように見えますが、私は「写真」を使用することに対していつも怖さを覚えています。
そのことを含めて、ここで『災害と写真』というテーマについて考えてみたいと思います。これまでの活動記録(メモ)の中でも「写真」に触れる機会がいくつかあったため、それを元に書いていこうと思います。
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続きは、10949文字あります。
- 写真を撮ることができなかった(選ばなかった)私
- 写真を撮った私
- 写真の持つ力
- 写真の持つ暴力性
- 写真を撮られるということ
- 再び「写真」の持つ力について
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