災害ボランティアの心構え(パートⅡ)

災害(ボランティア・支援)に関するテーマ記事。
これまでの活動記録の具体例をもとに、災害ボランティアにおいてどのような心構えや考え方が大切となるかについて反省的にまとめました。
以前書いた『災害ボランティアの心構え』に付け足す形となっています。
大塚光太郎 2024.05.26
誰でも

これまで書いてきた宮城県石巻市での活動記録から見える災害ボランティア・支援の心構えについて、以前の『災害ボランティアの心構え』に付け足す形で書いておきたいと思います(今後も記録を書くうちに付け足されていくことと思います)。

少し整理しておくと、『災害ボランティアの心構え』では災害ボランティアの定義から、実際にどのような活動があるかの例を挙げ、災害ボランティアを行う前の自己理解や情報入手の大切さ、実際に活動を行う際の基本的な部分=無理をしない・コミュニケーションを取る・一方的に行わない・自己責任の視点について書きました。

今記事を読んでみると、視野が狭いなぁ…と感じて恥ずかしいのですが(ボランティアとはそもそも自発的な気持ちから的な話がなかったり、便宜上とはいえ男女二元論が強く、ソフト面は女性がするもの的に見えてしまいそうだったり、自分の経験を中心に書くとは言えそこから脱せていない印象だったりなど)上記記事の内容はボランティアとして、あるいはボランティア同士で活動する際に(前に)速やかに安全に活動を遂行するための心構えといった内容となっていたように思います。

ここでは活動をする(継続していく)中で生まれる関係性、すなわち、ボランティア(支援者)と「被災地」や「被災者」との間に起こりうることや、ソフト面に注目し、活動の際の必要な心構えについて考えたいと思います。この記事もまた"活動記録で書いてきた私の経験”をもとにして書くので、視野の狭い内容となってしまうことはご容赦いただければと思います。

女川町

女川町

***

"約束”について

石巻への三回目の訪問では、継続して同じ場所に訪問してきたこともあって、これまでと比べて私と「被災地」「被災者」との距離・関係が近くなっていたことが伺えました。それは「被災地」「被災者」のことをより正確に知ることにつながるため、

災害によって影響を受け、最低限度の生活が脅かされている(された)人々と地域におけるニーズ(要望)とライツ(権利)を守るために自主的に行うお手伝い

を行う上では重要なことだと考えられます。

今後書いていくことになりますが、中長期的な視点で言えば「被災地」「被災者」との関わり・交流は「被災地」「被災者」にとって(だけではない)力になりうる(エンパワメント)ものでもあるため、その視点からもこのことは重要だと思われます。

一方で、関係が近くなることによって様々なネガティブなことが起こり得ることもまた事実だと言えるでしょう。歪な依存関係や軋轢が生まれたり、涙目で現状やお互いを見ていることに気づかないまま物事が勧められたりして、(ちょっとしたことから大きなことまで)トラブルや傷つきが残念ながら生じることがあります。『災害後の反応ー人(被災の内・被災の外)編ー』で書いたように、災害時は特にハイになっていることもあり、良くも悪くも強い力が働くとすると、そうしたトラブルなどは避けられないとも言えそうです。そのことと関連する私の経験に少し触れたいと思います。

私は三回目の活動(『活動記録⑩』には書かなかったのですが)の際に、避難所にいたご高齢の方とお話をする機会を持ちました(正確には私が勝手に避難所の近くに訪れて、そこでお会いした方と話をすることになったため、活動時間外の行動になります)。その機会はその方が私を見かけて話しかけてくれたことで訪れたのですが、避難所の外にある段差に座っていた私を見たその方は

見たことがある。遠いところからありがとう。

と唐突に私に声をかけ、飲み物をくださったことが記録には残っています。(以下の内容はハッキリ覚えているところもあれば記録をもとに「おそらく」の内容となっていることをご容赦ください)。

私としてはその方とお会いしたことはないと認識しており、おそらくその方も本当のところはそうだったのだろうと想像しています。とはいえ、これまで私はこの避難所(学校)の校庭でこどもたちと遊んだことなどがあったので、その方は確かに私を「見たことがあった」のかもしれませんし、大勢の人が支援に来ているので、似たような若者を見たことがあったということなのかもしれないとも思います。いずれにしても、偶然居合わせたことを好意的に捉えて声をかけてくれたような印象を受けたことを覚えています。

そこでその方とどのくらいの時間を過ごしたかは定かではないですが、話をする中でその方が中越地震を経験した方から支援物資でもらったという(思われる)下駄のストラップを私に見せてくれ、その片方を私に渡してくれるということがありました。私は受け取って良いのかと少し戸惑ったように思いますが、それをありがたく受け取ることとしました。外とはいえ避難所で偶然出会った(しかも向こうから声をかけてくれた)ことや、活動とは関係のないところで出会ったという特殊なシチュエーション、二足でひとつ的な物語性のあるものだったことから、どこか縁のようなものを私が勝手に感じたためにそう判断したのだと思われます。そんな出会いがあるとも、さらには貰い物をするなんてことも思っていなかったため、気持ちが高揚したことも記録からは伺えました。そして、私は確かその際に「また来ますね」なり「(受け取ったもう片方の下駄を)また見せに来ますね」といったような言葉をその方にかけました。正確な文言ややり取りは残念ながら思い出せない(し記録にもない)のですが、ストラップを巡って再会の"約束”をしたことは確かだったと思われます。

この一連のやり取りで、私がいかに自分に酔っていたか(ハイになっていたか)がわかり、正直お恥ずかしいのですが、ここでは再会の"約束”をしたことに注目したいと思います。

災害ボランティア・支援では通常、できない"約束”はしないことになっています(といいますか、災害ボランティア・支援に限らず、人と人との関係において、できないことやわからないことを無責任に言うこと・約束することはそもそもおかしいことであり、それをすることは当然推奨されないはずですよね)。理由は語るまでもありませんが、"約束”することはその人の希望となりうることもあるものの、期待させ、待たせ、果たされなかった場合には失望に変わって(余計に)傷つけてしまうことがあるためです。

私はこの時に(受け取る戸惑い然り)どこかで違和感を抱いていたとは思うのですが、そう言ってしまったのはおそらくハイになっていたことが考えられます。そして、距離が近づいてきたこと、あるいは、もっと距離を近づけたいといった歪な依存関係へと足がかかり始めていたということも言えそうです。「また必ず石巻に来る」という気持ちや、その気持ちになっていたがゆえの「"約束”は決してできないことではない」という考え、そして、どこかでこの方(「被災者」)がしてくれたことに応えたいという気持ちや、この方にとって(「被災地」「被災者」にとって)プラスになりたいと思っていたということもあったでしょう(その他の可能性については以下に書きます)。

実際、その後も私は続けて石巻市に通い続けました。しかし、その方と(おそらく)活動中にお会いすることはできず、どこか心にしこりのようなものを抱えて活動をしていたように思います。そして、この"約束”は簡単にしていい類のものではなかったことを徐々に反省していたようにも思います。もしかしたら、その方はそもそも"約束”と認知していたかもわかりませんし、"約束”したことを忘れてしまっていたかもしれないなどとも考えられますが、もしその方を待たせてしまっていたとすると、それを裏切ってしまっていたとすると、本当に申し訳ないことをしたなと思います。

「被災地」「被災者」は災害が起こったその日から、次から次へと人が入ってきては出ていくという光景を目の当たりにすることになります。そのことに慣れてしまうこともあると思いますが、「被災者」は災害による別れだけではなく、ボランティアや支援者との別れも繰り返すこととなり、それは寂しさや不安、「どうせあの人もいなくなる」といった刹那的な感覚を抱かせるものであるとも考えられます。"約束”は災害ボランティア・支援に限定される話ではありませんが、そうした特殊性から考えると、安易な"約束”をすることは慎重になるべきであり、そのことの重みは訪れる側と待つ側とではまるで異なると言えそうです。こうしたことは「被災地」「被災者」と関係が近づくことで生じうることであり、災害ボランティア・支援をするにあたって考えておくべき点であると私は自身の経験から思わされました。

なお、その後私は岩手に移住してから、その方の元を訪ねて無事に会うことができました(今後の活動記録の中でも出てくるかも&記憶違いでその時以外にも再会できていた可能性もあります)。ストラップを見せ、家にあげてもらってその時のお詫びやお話をする機会を持ちました。だからといって「よかったよかった」という話ではなく、移住するくらいでないと再会できないような"約束”だったとするならば、やはりおかしいし、不用意であったことを反省すべきだと、より思います。

温度差に気づくー環状島モデルからー

「訪れる側と待つ側」と書いたように、災害ボランティア・支援においては、どうしても「被災者」(待つ側)と「支援者」(訪れる側)という構図が生まれます。「被災者」と「支援者」がどれだけ一緒に活動をしたとしても、どれだけ共に苦しんだとしても、関係性は深まるものの「訪れる側と待つ側」といった関係性は、完全にはなくせないものであるように私は感じています(少なくとも「被災者」=「待つ側」からすると)。

そうした中で、「支援者」が限りなく「被災者」に近づくことができるようになった時に気づくのは、「支援者」と「被災者」の間にある温度差です。

ここで少し 『災害後の反応ー人(被災の内・被災の外)編ー』 からそれぞれの心境・状況を整理してみると、「被災者」側は被災というダメージを負う経験をし、多くのものを失い、そのことにショックを覚え、意気消沈している可能性があると言えます。被災によって圧倒的な力で壊された現実を毎日のように、かつ、中長期的に突きつけられ続け、今後のことをよく考えられないような無力感に襲われることが想像できます(もちろん、すべての人が常にこういう捉え方をするものというわけではありません)。

一方の「支援者」側はどうでしょうか。ダメージを負ったり、ショックを覚えたり、無力感に襲われること自体は共通しているかもしれません。「被災地」に縁がある「支援者」は、大切な何かを失っているということも共通している可能性があります。しかし、そうした人たちが「支援」をしに現地に訪れるとはどういうことかと考えてみると、そこにあるのは「なんとかしたい」「力になりたい」という強い思いだろうと考えられます。「被災者」の中にもそうした強い思いを持って活動をしている人もいるものですが、「支援者」のそれと同じような強い思いを持てない人が多くいることは容易に想像ができます(でもそれは忘れられがちであり、そうした強い思いを持つこと=いいことともされがちです)。また、そうした強い思いを持って「被災地」に訪れた人達による支援活動は、短期間ということも多くあります。私がこれまでに書いてきた活動記録は数日、長くても一週間ほどでした。そうだとすると、その思いの強さというのは、毎日のように中長期のスパンで被災と向き合う「被災者」のそれとは大きく異なるだろうと考えられます。今後書くことになると思いますが、そうした思いを持って「被災地」「被災者」の元を訪れること(自身)を「困っている人を助ける勇敢な行動(姿)」かのように錯覚する人(誰しもがそう見てしまうものとも言えるのかもしれません)もいてーそれを「被災者」がその場では歓迎するかのように対応することもあるーますます温度差が生じるということもあります。

そのひとつの例が私の『活動記録⑪』から見られるように思います。その日は大人数で活動をしたということが記録されており、大人数だったのは企業の社会的責任とされるCSRの一環で活動がされていたということでした。それは頼もしく見える反面、大人数という大きな力が働くことによる過信が見えたり、必ずしも自発的ではない可能性を感じるなどして(内実はわかりませんし、すべてがそうとは思いませんが、CSRだから仕方なくとか、それに参加すれば社会的に有利になるなど、いろいろな思惑があることは否定できないように思います。そのことの是非はここでは横に置きます)温度差が見えやすくなっていたと考えられます。

私がその日

「やってやる」のよくなさを感じた。なんだか悲しかった。
  『活動記録⑪』  

と書いているのは、今回の訪問で私が「被災者」に近づいていたことで「被災者」寄りの立ち位置から、「支援」の様子を見ていたためだと思われます。そこにある温度差に触れ、「悲しく」思ったのだろうと考えられます。

こうした温度差(等)について、トラウマの専門家である宮地尚子先生(以下、宮地先生)は環状島モデルというもので整理をしているので、かいつまんで紹介したいと思います。なお、このモデルはもともとはトラウマの臨床によって生み出されたモデルであり、それをもとに震災の場合での整理もされているため、少し長くなることをご容赦ください(それでもだいぶかいつまんでいます)。

〈環状島〉とは、私がトラウマの臨床をする中で作ったモデルで、真ん中に〈内海〉がある島です。
『震災トラウマと復興ストレス』

それを図にしたものが以下になります(同著:p9 図2)。

『震災トラウマと復興ストレス』より

『震災トラウマと復興ストレス』より

これを縦に切り取った図が以下です(同著:p9 図3)

『震災トラウマと復興ストレス』より

『震災トラウマと復興ストレス』より

それを文章で説明すると以下のようになります。

環状島の上には、被害当事者や支援者といった、トラウマについて語ることができる人が位置することになります。傍観者、すなわち当事者でも支援者でもない人は〈外海〉に位置します。 
『震災トラウマと復興ストレス』
〈内海〉から波打ち際をこえて、〈内斜面〉があり、〈尾根〉があり、〈外斜面〉があり、〈外海〉に開けています。
『震災トラウマと復興ストレス』
 〈内海〉は犠牲者や、かろうじて生き延びたけれど声を出す余力のない人たちがいる沈黙の場所です。波打ち際から〈内斜面〉にあがると、声を出せる生還者(サバイバー)がいます。
『震災トラウマと復興ストレス』
 〈尾根〉を挟んで、〈外斜面〉には支援者がいます。支援者は〈外海〉から〈外斜面〉を登って内側に近づき、被害者を引き上げようとします。
『震災トラウマと復興ストレス』

こうしたモデルは震災全体についても当てはめられ、宮地先生は以下のように図にしています(同著:p11 図5)

『震災トラウマと復興ストレス』より

『震災トラウマと復興ストレス』より

宮地先生はそれを文章で以下のように説明します。

 〈内海〉には、死者、行方不明者が沈んでいます。〈内斜面〉には、被災者、つまり避難所生活者や遺族がいます。
『震災トラウマと復興ストレス』
 〈外斜面〉には自衛隊、警察、消防隊、消防団、医療関係者など現地で救援・復興作業に従事している人たちや、ボランティアなどが含まれます。
『震災トラウマと復興ストレス』
こうして環状島モデルでは、〈内海〉、〈内斜面〉、〈外斜面〉、〈外海〉にそれぞれ、犠牲者、被災者、支援者、傍観者という立場の違う人たちが位置することになります。
『震災トラウマと復興ストレス』

(この区分けは実際にはもっと様々な分けられ方や見方があり、宮地先生はそのことも著書の中で書かれていますが省略していることをご容赦ください。)

このモデルで、上記の活動の際の私の立ち位置を整理してみると、私は〈外海〉から内側に近づき(実際にそうできていたかどうかは別にしても)限りなく〈内斜面〉に近い位置、つまり高い〈尾根〉の位置から〈外斜面〉や傍観者付近の〈外海〉を見ていただろうと考えられます。そして、

トラウマの特徴は、感情や感覚の強度、切迫度にあり、非当事者との間に「溝」をもたらします。環状島は「感情島」でもあります。(略)トラウマがもたらす感情の強度、切迫度がつくりだす地形が、まさに環状島なのです。
『震災トラウマと復興ストレス』

とあるように、私は〈内斜面〉や〈尾根〉から感じられる強度や切迫度と〈外斜面〉とのそれとに大きな「溝」を感じたのだろうと考えられるでしょう。同時に、その「溝」(温度差)は「被災者」からすると「支援に"来てもらっている”」という立場である以上、簡単には口にできないといった認識もあった(私自身が感じていた)のではないかと思われます。だから、「悲しかった」のだろうと考えられるのです。

そうした「溝」・温度差が生じてしまうこと自体は避けられないことだと思いますし、〈外海〉から来る人が大人数で勢いよく登ってくる姿は確かに頼もしく見えることがあると思いますが、そこにある不均衡がかえって「被災者」に距離や違い(所詮、他人事なのだろうと)を感じさせたり、重たさを感じさせ、負担となったりする可能性があることは心構えとして持っておくことが重要と考えます。活動に参加する際には、自身の立ち位置を自覚すること(以下に書くようにそれを共有できる仲間も必要)が大切となるのだと思われます。

支援者の傷つき

温度差の話では、被災によってダメージを受けること自体は「被災者」側と「支援者」側とで共通していると書きました。一方でその中身には当然違いもあり、整理が必要な概念だと言えます。なぜなら、このことは「被災地」「被災者」との関係性に大きな影響を及ぼすものだと言え、心構えとして身につけておくべき重要な概念(知識)だと考えられるためです。私の活動記録からは、関係が近づく中でボランティア・支援者側のダメージ・傷の中身は変化していく、あるいは都度生み出されていくものであることがわかるように思うので、それをもとに「支援者」側のダメージ・傷つきについて考えたいと思います。

活動記録⑪』で私は自身の傷つきについて書きました。それをケアできていないことも記録に書いたとおりです。改めてそのことを整理してみると、私は被災の大きさにショックを受け、傷を負いました。そして、「被災地」「被災者」と距離が近づき、関係性が近くなることで様々な被災の体験を聴くことになり、疑似体験・追体験を(と言っても完全に理解や経験などできるという類のものではありませんが)繰り返し、強いストレスを覚えいたと考えられます。そこには、震災体験の恐怖などの様々な感情を味わうこともあれば、一向に町並みが変わらないもどかしさや格差をリアルに理解できることにもつながり、理不尽な現実に言葉にならない様々な感情を抱くというストレスもあったと言えるでしょう。そうした現実に対して自分には何もできないことを歯がゆく思い、無力感や怒りの感情が少なからず私の中に生まれたであろうことも想像ができます。

これを上記の”約束”の話と重ねると、そうした心理状況になっていたと言える私は、「被災地」「被災者」のプラスになりたいという思いを抱く一方で、「プラスになれない自分を受け止められない」という思いも抱えていたことが考えられます(実際どうだったかまではよくわかりませんが)。それゆえに例の"約束”の場面を、「プラスになれる機会」として認知して、”約束”してしまったのではないかと思うのです。その機会は自身の様々な感情・傷つきを横に置くことができるものとなり、「また必ず石巻に来る」といった動機付けともリンクしたでしょう。こうした思考(気持ちの動き)は男性優位社会のマッチョな思考におけるものとも言えそうであり、自分自身のことを大変恥ずかしく情けなく思いますが、弱さを扱えない・ケアをするのは誰かという社会・ジェンダーの問題の影響も少なからず受けていたであろうことも考えられます(このあたりは今後別で書くと思うので省きます)。

この例からもわかるように、「支援者」側の傷つきは支援者の選択を揺さぶり、「被災地」「被災者」との関係に影響を及ぼします。それが様々なトラブルのもととなってしまうこともあることから、心構えとして持ち、その上で体制づくりを考えておく必要があると私は考えます。その点についても、宮地先生が整理して説明しているため、いくつか引用していきます(すべては書くことができないのと、私のtheLetterは宮地先生のご著書とリンクすることが恐れ多くも多いため、今後も積極的に引用をさせていただく予定です)。

まず、私が被災の光景等を目の当たりにして負った傷つきや、何もできない歯がゆさなどは惨事ストレスとして説明することができます。

支援者は、〈内海〉や〈内斜面〉の惨状を知り、何か自分ができることはないかと、〈外海〉から〈外斜面〉を登り、〈内斜面〉に近づいていきます。この、〈外斜面〉にいる支援者にも〈重力〉は強く働きます。
 まずは、惨事ストレスです。 惨事ストレスとは、つらく悲惨な現場での支援作業がもたらす心の負担です。
『震災トラウマと復興ストレス』
職務という「防護服」があっても、惨事ストレスから逃れることはできません。自分自身が被災者でなくても傷つくのです。 惨事ストレスは、自分の無力さ、助けられなかったという自責の念を感じるときに、特に強くなるといわれています。その衝撃は、支援者が被災地から帰り、通常の勤務に戻っても、尾を引きがちです。
『震災トラウマと復興ストレス』

私は尾を引くようなことはなかったと思いますが、強いストレスを感じていたことは事実であり、そのことを当時はこうした概念で整理することはできていませんでした。一方で、被災体験を聴くことなどによる疑似体験・追体験については代理外傷として整理することができ、この概念自体は私も理解していたように思います。

被災者や遺族から話を繰り返し聞いたり、トラウマについて深く考えることは、 PTSDに似た症状をもたらします。 これを、代理外傷 (vicarious trauma) といいます (二次受傷 (secondary trauma)、二次的外傷性ストレス (secondary traumatic stress) といった呼び方もあります。
『震災トラウマと復興ストレス』
個人差も大きく、感受性や共感性の高さは、被災者に寄り添う上で役に立つ資質ですが、 自分の心身の安定を脅かし、危険なこともあります。 支援者自身の過去のトラウマが、支援に重なって、 よみがえってくることもあります。
『震災トラウマと復興ストレス』

自分で言うのもなんですが、私は割と感じ取りやすいタイプの人間だと思っているため、それが諸刃の剣となることもまた自覚していたようには思います。とはいえ、あまりに理解を上回る話・経験を聞かせてもらう中で、少しでも多くのことを感じ取ろうとしていて、外傷を深めていたということも考えられるように思います。

その他にも「共感疲労」や家に帰ってからの「罪悪感」や「うしろめたさ」、「逆カルチャーショック」などもあることを宮地先生は指摘しており、今後書いていくことになる重要な概念(知識)と考えます。

惨事ストレスの説明の中にあるように、こうしたことからはどうしても避けられないとすると、どうしたらいいのでしょうか。まずこのように知識として知っておくということは大変重要だろうと思います。それは自分の気持ちや状態に気づくことにつながり、それに気づけばそれに沿った選択がある程度できるようになると思われるためです。ただ、それは自己責任の範疇でもあると思うため、環境の整備も必要であり、それを身近なレベルで宮地先生はたとえば

気持ちのきりかえをするために、報告会などの「儀「式」をするのも一つの方法です。
『震災トラウマと復興ストレス』

と言い、

関わった人すべてが自分の弱さを認め、惨事には衝撃を受ける存在だと自覚することは、とても大事だと思います。
『震災トラウマと復興ストレス』

としています。心構えと同時にこうした体制づくりが取られることで、より健全で継続的な活動につながりうるのではないかと私も思います。

ここでひとつ付け加えておきたいのが、「支援者」と「被災者」の間だけではなく、「支援者」間においても関係性の中で様々な感情が生じるということです(当然、「被災者」間でもありますがここでは省きます)。宮地先生はそれを「支援競争」「共感競争」「能力競争」などとして整理しており、今後これらについても書いていくことになると思われます。私の 『活動記録⑪』  では恥ずかしくもこうした「競争」の中に私もいたこと・他者からそうした目線を向けられてもいたことが伺えますが、長くなってしまったので、このあたりにしようと思います(今後触れることになると思います)。

関係性が生まれること・距離が近づくことはよいことだと、プラスの側面ばかりが語られがちですが、それゆえに起こりうる負の影響もありうるという理解は、トラブルをなるべく避ける手立てになるように思います。何よりこうした理解は、支援者が陥りがちなーたとえば当事者(「被災者」)はもっと苦しんでいるからなどと思うことでー自らの傷つきを否定するということも防ぐ(それはむしろ不自然とも言えるかもしれないと)ことにもつながり、それはトラブルの要因となる傷つきをケアすることともつながるでしょう。

もっと早くからこのことを知っておくことができていたら、違う言動を選択していた場面もあっただろうかなどと思いながら(それはすなわち私と出会った人たちとの関わりも違った可能性があったと言える)この記事を書きました。

能登半島地震・津波から5ヶ月が経とうとする中で、「被災者」の疲れもかなりのものとなっているであろうことや、様々な関係性が生まれ、そのことによるトラブルも生じているのではないだろうかということも想像されますが、少しでも避けられるものが避けられるといいなと願うばかりです。

以上が、『災害ボランティアの心構え(パートⅡ)』となります。

書きながら、他にも様々な経験や記憶が呼び覚まされていたため、今後も定期的に(心構えとして書くかはわかりませんが)テーマ記事を書いていけたらと思います。災害は平時とつながっていることもこれらの記事を通じて共有できましたら幸いです。

お読みいただきありがとうございます。

※今回は私の経験を多く書いているので、読者限定とさせていただきました。

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