災害往復鳩:災害時に起こること『「ガレキ」という言葉』から、平時の社会の課題を考える
民俗学者である川島秀一氏の言葉
いつの世でも、自然災害の後にやって来るのは「人災」であった
この言葉と「平時の不平等・不公正を是正することが最大の防災である」という言葉、考えをもとに、私はthe Letterの記事を書いてきました(書いています)。
自然災害後の人災はなにも特別なことが起こるのではなく、平時の社会にある課題や価値観の延長線上で起こるものであり、地続きであるということ。平時に(実は)すでに起こっている問題が、災害のあとに形を変えて、あるいは、より強い力で人災となって起こるのだと私は考えています。
災害時に起こる具体的かつ(小さなとされる)傷つきを『災害伝書鳩』と称して記事にしましたが、ここから見える平時の社会の課題・価値観について考えてみたいと思います。
「もの」の価値を決める指標・価値観
災害によって被災した「もの」は一様に「ガレキ」と呼ばれるようになると『災害伝書鳩:「ガレキ」という言葉』の記事で書きました。そのことに違和感を抱いた、リアス・アーク美術館の館長であり自らも「被災者」である山内宏泰氏は、「ガレキ」という言葉の意味を調べ、そこに「価値のないもの、つまらないもの」という意味があることを指摘したのもその記事に書いたとおりです。
私は災害支援の経験から、この山内氏の違和感は山内氏だけのものではなく、多くの「被災者」が抱いた違和感だっただろうと感じてきました。そのことは
「ガレキといえど、家の一部、大切なものの一部」
であり
「思い出の品などが出てきたり一見ただのガレキも家の方(漁師)にとっては必要なものもあった」
という事実が、「価値のないもの、つまらないもの」という意味の「ガレキ」となってしまう、されてしまうという状況を想像すれば、容易に理解できるものであるように思います。そう考えると、一様に「ガレキ」と呼ばれ、名付けられることは、「被災者」あるいは、その「もの」の持ち主にとっては生活の証を否定されたことと等しく、傷つく可能性のある行為であり、暴力性をはらんだ行為だと言えるように思います。
こうした行為(現象)は平時の社会においてもよく見られることだと考えます。
たとえば、こどもが大切にしている「もの」を、大人(親)が「つまらないもの」だとしてぞんざいに扱ってしまうといったことは、日常的に(残念ながら)よくあることのように思います。こどもが好きなこと・「もの」を、大人(親)はそんなこと・「もの」とし(まるで「ガレキ」かのように)、「そんなことに時間を費やすくらいなら、将来役に立つことに時間を費やしなさい」と切り捨ててしまったり、「もの」が無形の「もの」を含むとするならば、「そんな「話」はいいから、早く勉強しなさい」などと言ってしまうということはよくある話なのではないでしょうか。
このことは私達(の社会)が「もの」を「市場価値」において(のみ)判断・評価をしてしまいがちであるということや、「役に立つかどうか・使えるかどうか」という指標で(のみ)「もの」の「価値」が決められるということを示しているように私には思え、いわゆる生産性や効率性を重視する社会の姿が浮かび上がってくるようです。
被災した「もの」は、「市場価値」はもちろん(災害の記憶を残すという意味で人を呼ぶものとしては「市場価値」があるのでしょうけど)「役に立つ」ことや「使える」ことはほとんどありません。生産性や効率性という指標においては、「価値のないもの、つまらないもの」であることから、「ガレキ」と呼ばれるのは当然のことなのかもしれません。しかし、「被災者」はそれが「ガレキ」と呼ばれることを確かに拒否し、同時に「ガレキ」ではないとしました。実際に「ガレキ」ではないという事実を含めて考えると、「もの」の「価値」を生産性や効率性で決める社会こそが、「ガレキ」と呼ぶ社会のもととなっているのではないかと私は考えます。
バウンダリーの視点
「もの」の「価値」を生産性や効率性で(のみ)決めてしまう平時の社会が、災害時に「ガレキ」と当たり前に呼ぶようになることと地続きなのではないか、と考えてきましたが、本来「もの」の「価値」というのは、一人ひとりの持ち主が自分の気持ちでもって主体的に決めていいはずだと考えます。誰かにとって「価値」のないものでも、持ち主にとっては「価値」があり、大切なものであるということはいくらでもあるでしょう。そして、「もの」にはその持ち主の記憶や生活の痕跡がこもると考えられるため、「市場価値」としてだけで「もの」の価値が判断されること自体、疑われるべきことであるようにも私は思っています。つまりは、「もの」の「価値」や「もの」をどうするかということは、その「もの」の持ち主次第であり、持ち主の気持ちが尊重される必要があるのだと思います。
このことはバウンダリー(境界線)という概念から整理できるように思います。バウンダリーとは境界線という名の通り、「わたし」と「あなた」との間に引かれる線であり、自分と他者とを区別するための線のことを指します。スクールソーシャルワーカーの鴻巣麻里氏は著書『わたしはわたし。あなたじゃない。10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』において、バウンダリーのことを
「わたしはわたし」「あなたはあなた」という心の境界線
としています。そして、バウンダリーは「私が決めていい」ということの積み重ねで守られていくことや、バウンダリーを守るために欠かせないものとして「権利(人権)」と、「同意(相手にYESとNOを表明すること)」とがあると述べています。「心の境界線」というとあいまいなもののように思えてしまうかもしれませんが、「権利」と「同意」という概念からもわかるように、ポイントとなるのは、私のことは私が決めることができるというところにあると私は考えています。
上記した、大人(親)がこどもの「もの」をそんな「もの」・こととしてしまうという例は、本来こどもが「決めていい」はずのこと(価値)を大人(親)が決めてしまいました。その意味で、大人(親)がこどものバウンダリーを侵害してしまった例だと言うことができるわけですが、この例は「日常的によくあること」だと書いたように、私はこの社会はバウンダリーという概念があまり尊重されておらず、バウンダリーを侵害されてしまう(してしまう)リスクが高いと考えています。鴻巣氏は同著で
(権利と同意)日本ではそのどちらもが軽んじられ、子どもたちの「NO」と言う力が奪われています。
と指摘していますが、私も同様に感じ、懸念をしています。
上記の例からは「親子なのだから」という理由で、こどもの「もの」という線を親は越えてもよしとする社会の姿が見えるように私には感じられます(当然、親はこどもの責任を負う立場でもあるため、ときにこどもの権利を守る上でバウンダリーに戸惑うということはよくあることだと思います)。それは誰かの「もの」を他の誰かが決めてしまうことに抵抗がない社会だとも言い換えられ、「ガレキ」と呼ばれる行為(現象)をよしとすることと地続きであると言えるように私は思います(災害時に起こるトラブルの多くはバウンダリーの概念で考えられる例が多くあると感じていますがここでは省略します)。バウンダリーが軽んじられている社会、つまりは人権-特にマイノリティの人権-が尊重されていない社会であることが、「ガレキ」と呼ぶ行為(現象)を許容し、災害時の傷つきを生み出しやすくしてしまっているのではないか。そう考えると(そう考えなくても…)人権が尊重される社会を作っていくことが、平時においても、災害時の人災を防ぐ上でも重要であり、バウンダリーはそのひとつの手がかりとなりうるのではないかと私は考えています。
時間に追われる脆弱な社会
「ガレキ」と呼ばれる行為(現象)を通じて、「もの」の「価値」を生産性や効率性で決めがちである(決める力があまりに強い)社会、また、バウンダリーという概念が軽視されている社会の姿が浮かび上がってきたように思います。それらと類似する、あるいはつながっていると考えられますが、もうひとつ平時の社会の姿として浮かび上がってくるのは「時間」に追われる社会、その脆弱性ではないかと私は考えています。
これについては、災害時に「ガレキ」と呼ばれることが当然となりやすい理由から考えてみたいと思います。
平時と災害時とで大きく異なるのは、緊急性の高さと、その緊急性の高い事案が災害時には同時多発的に(時に)広域で発生するということだと思います。平時でも緊急を要する案件はあるものの、その案件と同時に地域全体が緊急事態となることは災害時の特徴と言えるでしょう。そうした特徴から、アクセスが容易ではないことや人手が足りない状況に立たされやすいということが考えられ、かつ、人命救助が何よりも最初に求められること、そして、一刻も早く日常に戻し次から次へと対応が求められるといったことが想像できるように思います。このような状況で、一つ一つの変わり果てた「もの」を誰かの大切な「もの」であるとして、ゆっくりと時間をかけて扱ったり、確認を取ったりするという作業を踏むことには、正直限界があると言わざるを得ないと思います。しかし、だからといって、「ガレキ」と呼ばれることを受け入れるべきだなどといった話ではもちろんなく、このことから言えるのは、時間に追われる社会では「もの」を生産性・効率性という視点(のみ)で決めてしまいうるということや、バウンダリーを踏み越えて決めることを-まるで「ガレキ」として扱うかのように-許容してしまいうるということだと考えます。
再び上記の大人(親)とこどもの例に戻ると、大人(親)が「そんなもの」としてしまう場合の多くは、大人(親)に仕事があって急いでいるからとか、こどもが学校に行く時間なのに…などという時間に追われている状況がイメージできるだろうと思います。そんな「もの」・ことは後にしてくれと言いたくなる、言わないと実際回らないといったことは多くあると思います。災害時に限らず、そういった現実、時間に追われることは間違いなくあるため、その衝突そのものは必ずしも否定されるべきではないだろうと考えますが、それでも、そうではない状況においても、常に時間に駆り立てられているように感じる社会の姿が、いつでも「そんなもの」としてしまいうる社会の姿があるのではないか、と私は問いたいと感じています。こどもにも大人にも本当は時間があるはずの時でも、大人(親)がこどもの好きな「もの」を、たとえば「将来役に立たないだろうから」という理由=生産性や効率性で、あるいは、「親だから」という理由でバウンダリーを侵害して動いてしまうということが社会の通常運転(デフォルト)のようになってしまっていないだろうか、それが時間に追われる社会システムにおいて強化されてしまっていないか、と私は思うのです。
「ガレキ」と呼ばれる状況をよく見ると、必ずしも緊急性が高いからという理由でその言葉が使われているわけではないと思うことがよくあります。災害ボランティアの募集案内や「被災地」の状況を伝えるニュースなど、違う言葉を使うことができるはずの場面で「ガレキ」という言葉が使われることに対して、私はいつも疑問に思っています。わかりやすさや、「被災地」の惨状を伝えるのにふさわしい言葉なのかもしれませんが、それは「市場価値」と地続きだと言えるようにも思います。
このことは、いわゆるメンタルヘルスの領域においても重要なことのように私は考えており、時間に追われる社会がデフォルトであると、つらいことや悲しいことなどがあったときに「忘れなさい」「もう終わったことでしょ」という言葉がかけられやすくなってしまうのではないか、と懸念しています。次から次へと対処をしないといけない(と思わされる)社会、立ち止まることを許さない(と思わされる)社会では、悲しみに浸っていることは効率が悪く、生産性が低いこととされるでしょう。そうした社会が、誰かのつらさや悲しみまでもをそんな「もの」としてしまい、早く解決するようにとバウンダリーを踏み越えてしまう。そうした社会の姿が「ガレキ」と呼ぶことを当然とする土台となっているのではないかと私は思うのです。平時の社会がそうしたシステムになっているのであれば、緊急性の高い災害時ではより「被災者」(そして支援者も)は急かされ、一人ひとりの大切にしたい(小さな)思いは蔑ろにされていってしまうのだと考えます。
自身もアディクションの当事者である赤坂真理氏は著書『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』で、以下のように述べています。
ショックや悲しみが大きすぎたときに何もできなかったと言う人が多く存在する。そのときの真実を抱きしめる時間が、そのときにとれるのが本当は一番いい。(略)断線さえもリアリティとして感じ、「まぎれもない自分の真実です」と言って、糾弾されることを恐れずに差し出せる場があればよかった。ただ現代社会はあまりに早く前に進もうとするし、物事を早く進めることがいいことだと暗に強要してくるのだ。
平時の社会があまりに時間に追われ、早く次に、前にと急かす社会であるがゆえに、災害時には-こんなときだから焦らずにいこうという声が聞かれることもあるものの-よりそれが強化され、「ガレキ」と呼ぶことを疑いもしないということが起こっているのかもしれないと私は考えます。ちなみにアディクションによって赤坂氏が抱いた感情・感覚を
自分のことながら災害に遭遇するのと近い
と赤坂氏が綴っていることは、とても興味深く思います。
このように書くと、今の便利な社会を手放すべきと言いたいのかといった話になることがありますが、決してそういうことを言いたいわけではありません。しかし、気候危機やSDGsなどと声高に言われるようになった社会において、今の社会の在り方・価値観は根底から見直され、豊かな暮らしを再考(再興)していく必要はあるのではないかとは私は考えています。災害に脆弱な社会であることを見つめるべきであり、そこから社会のあるべき姿を考えていく必要があるのではないかと思うのです(災害大国であり、自殺の多いこの国において優先順位が見直されるべきことが多くあると私は思います)。
名付けられることの問題、その権力勾配
最後に、改めて「ガレキ」と呼ばれること、名付けられるという行為(現象)の問題点について、支援者という立場から考えて記事を終えたいと思います。
関東学院大学の言語学を専門とする中村桃子氏は、著書『ことばが変われば社会が変わる』の中で、アメリカの移民がアメリカで生活をするためにアメリカ人の発音をしやすい名前、あるいはアメリカ人のような名前に変えられることがあるといった例を記しています。そうしたことが起こるのは、名前を間違って発音されてしまい、何度も聞き直されてしまうことなどが起因しているためだと中村氏はしていますが、中村氏はここで重要なこととして、
どのような対応をするにしろ、対応を迫られるのはいつも移民や先住民の側だという事実だ。つまり、アメリカ社会の権力関係が、そのまま、だれが、自分の名前から人種や民族の意味を「はぎとられる」かを決めている。
と述べています。そして、
ことばがもっている意味をはがす行為は、「意味の漂白」の一例だ。先住民や移民の子孫の名前をアメリカ読みにすることは、それらの名前に与えられている人種や民族の歴史や文化を洗い流してしまう行為だ。
としています。
ここで改めて「ガレキ」と呼ばれる・名付けられるといった行為について考えてみたいと思います。「ガレキ」と呼ばれることは、「大切なもの」だったそれら「もの」が「価値のないもの、つまらないもの」だと位置(意味)づけられてしまう行為だと考えられました。それは中村氏の言葉を借りれば、「もの」が背負っていたはずの独自の歴史や文化が「はぎとられ」てしまい、「洗い流されてしまう」行為という風に言い換えることができるのかもしれないと私は考えます。人の名前には唯一性があるため、災害時の「もの」とは別(”コップ”や”イス”など一般的な名前でしかない)であり、大げさだと思われてしまうかもしれないものの、「もの」には人の歴史や記憶がこもっているとするならば、「ガレキ」として「価値のないもの、つまらないもの」だと位置づけられるという意味においては、大げさではないように私は思います。また、アメリカ人と移民のような権力関係が災害時にはないじゃないかという話もあるかもしれませんが、これについては、災害支援において「支援者(ボランティア)」と「被災者」の間には揺らぐことのない権力の勾配が存在するとハッキリと書いておきたいと思います。「被災者」から見て、縁もゆかりもない誰かが被災した自分をサポートしに来てくれるという構図は、それだけで「被災者」が自分の意見を表明することをしにくくすると考えられます(このあたりも重要なポイントですが、都度書いていくことになるので省略します)。もちろん、逆に支援者を利用するといったようなことも起こるわけですが、通常は権力勾配があり、権力勾配があるからこそ利用する現象が起こるとも考えられるように思います。いずれにしろ、もし「支援者」に「あのガレキはどうしますか?」と問われたとしたら、多くの「被災者」は「あれはガレキじゃない!」と言い返すのではなく、どうするかの返答をするのではないかと私は思います。「ガレキじゃない」と言い返せばいいと思う人もいるかもしれませんが、これについては中村氏の例を借りると
じゃあ、なんで正しい名前に訂正しないのか」と言う人がいるかもしれない。しかし、頻繁に聞き直されたり、毎回、間違って発音されると、あきらめてしまう場合もあるのではないか。
という説明できるだろうと思います。当たり前のように「ガレキ」と呼ばれてしまう環境であれば、そうじゃないと毎回否定することをあきらめてしまう「被災者」もいるのではないかと考えることが適切なのではないでしょうか、と私は考えます。名前をつけるという行為が言葉の意味を漂白し、独自の歴史や文化を奪ってしまう可能性があるということ、その行為がその世界の見え方を変えてしまいうる(災害時の「ガレキ」は「被災者」に「価値のないもの、つまらないもの」なのだと認識させることとなるなど)ということを、私達は-特に支援者は-平時から考える必要があるのかと思います。これもまた「人権」の問題であり「同意」の問題と地続きだと私は考え、平時の社会の在り方を問うべきだろうと思います。
「ガレキ」と呼ばれること、名付けられる行為を通じて、平時の社会の姿、価値観や課題について考えてみました。突き詰めれば、新自由主義的な社会、自己責任論や能力主義の社会などに行き着くものだと考えますが…「ガレキ」という言葉が使われるといったひとつの(小さな)行為から、身近な問題として考えてみたところです。拙い内容であるものの、theLetterではこうしたことをこれからも繰り返し書くことになるだろうと思っています。どうかご容赦いただければと思います。こうした積み重ねが最大の防災と信じて、書いていけたらと思います。
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