災害と外国人
ここでは『災害と外国人』をテーマにし、自身の経験を踏まえて、考えたことをまとめました。
災害時に「外国人」はどのような問題と直面してきたのか、引用を多めに書いてみました。
ずいぶんと更新が滞ってしまいました。
その間、私のいる陸前高田市のお隣、大船渡市では平成以降最大と言われる大規模な山林火災に見舞われました。
発災から3カ月以上が経ち、仮設住宅への入居等がはじまりましたが、生活再建や(いわゆる)復興には長い時間がかかることが予想されます。災害ボランティアとして現地に入った経験からは、地域の中の人だけで再建や復興していくには限界があることも実感しています。これからも、近いところに住む、外からの人としてー主体や役割を奪わずにーささやかでもお手伝いができればと思います。
活動をしていると、東日本大震災で経験したことが次から次へと蘇ってきました。新たな気づきを得ることもあり、現場から学ぶことの重要性を感じています。こうした経験も含めて、theLetterで書いていけたらと思います。
さて、今回は『災害と外国人』というテーマで記事を書いてみたいと思います。
私はこれまでたびたび外国人の方と東日本大震災の災害ボランティアをご一緒してきました(これまでの活動記録の記事で書いてきたので、よろしければと思います)。
泥出しや被災物の撤去作業の際、大きな体で力を発揮する外国人の方がいて頼もしく思ったことや、言葉の壁がある中で身振り手振りで意思疎通をし、お互いを労いあったことなどなどは、どれも懐かしい思い出となっています。
中でも特に印象に残っているのが、ともに活動をしたある外国人女性の語り(活動記録⑬参照)で、日本で生まれ育ち、日本語を母語としている私には見えないことがあることを私は彼女から教わりました。そうした経験が今回このテーマで書きたいと思った動機のひとつともなっています(「外国人」として括って書くことに違和感を覚えつつ、、でもありますが)。
一方で、『災害後の反応(属性)』の記事で少し触れたように、災害時には外国人差別の問題が噴出することはよく知られていることだと思います。東日本大震災当時の私はそのことに疎く、自身の特権に無自覚だったと思い知らされるばかりなのですが、振り返ってみれば、外国人のボランティア・支援者と共に過ごすことはあっても、外国人の「被災者」と言葉をかわす機会があまりなかったな…と感じています。そこにある構造の問題-私が何を見ずに済んでいたのか-についても考えたいと思います。経験が浅く、特権のある立場であることから不十分な記事だと思いますが、一緒に考えることができれば幸いです。
なお、この記事で言う「外国人」とは、日本国籍ではない人・日本語を母語としていない人・外国にルーツを持つ人のことを主にイメージしていますが、それらに該当しなくても見た目や方言などで「外の人」という位置にあてがわれてしまうリスクのある人のことも頭の中では想定しています。それでも書ききれず、また、誰かを排除してしまっているかもしれないという不安は消えません。免罪符にはなりませんが、自身の特権や差別意識を見つめながら書くことができればと思っていることを予め共有させていただきます。
※theLetterの記事は私の経験(「被災地・被災者」から私が学んだこと)であり、主観となりますので、あくまでひとつの参考程度としていただければ幸いです。

外国人の方との活動時の写真(左が私)
日本における外国人の状況
総務省(2024年)によると、日本に住んでいる「外国人」の人口は322万人とされており、訪日外国人の数に至っては3686万人(日本政府観光局2024年12月推計値)とされています。訪日外国人はコロナ禍で一時大幅にその数が減ったものの、収束後は増加傾向に戻り、主に円安の影響から今年は過去最速で1000万人を記録しました(日本政府観光局2025年3月推計値)。訪日外国人のうち旅行で訪れる人、いわゆるインバウンドによる経済効果は、2024年には過去最高を記録し、今年は前年比を上回ることが期待されています。
また、人口減少が続く日本社会では、特に過疎地の産業は外国人技能実習生によって支えられている実態があり、私たちの社会は「外国人」の支えなしではもはや成り立たない社会であると言うことができそうです。
一方で、「外国人」が日本社会できちんと受け入れられ、尊重されているかというと、そんなことはないのが現状でしょう。たとえば、インバウンドの増加は経済的な支えとして謳われますが、オーバーツーリズムの問題につながっていることがよく指摘されます。オーバーツーリズムの発生はインバウンドの増加がすべてでは決してないにもかかわらず、メディアでは問題を起こす「外国人」ばかりが注目されているように思います(少なくとも私はそう感じます)。問題を「外国人」のせいにして受け入れ体制の不備等から目をそらすことは誰にとっても有益ではなく、「外国人」を都合よく扱っているに過ぎません。
また、日本社会はそもそも人権の視点が不足していることから、「外国人」に対するそれはより不足していると言え、特に外国人技能実習生への人権侵害は深刻な問題となっています。2024年6月10日に施工された改正出入国管理法が象徴するように、日本の難民の受け入れが非常に厳しいことも深刻な問題であり、国連から再三勧告を受けているのが現状です。近年ではクルド人に対するヘイトデモが行われるようにもなり、外国人排斥の動きが加速していることに、非常に強い危機感を私は抱いています(『ETV特集 フェイクとリアル 川口 クルド人 真相』によると、2023年の後半から突如としてクルド人ヘイトデモがはじまったとされています)。
東北における外国人の状況
東北における「外国人」の状況については、東北大学ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン推進センターで講師を務める李善姫(以下、李と表記)が以下のように説明しています。
東北六県の場合は、外国人人口が全体人口の〇.五五%(六県平均)にすぎず(※2012年に廃止となった外国人登録者数が2010年で213万4151人だった内の統計)、その居住形態も全地域に分散していることから、外国人点在地域、あるいは散在地域と分類されている。
とくに津波被害が大きかった沿岸部にはより外国人は少なく、その多くは結婚で移住してきた「外国人花嫁」か、技能実習生であった。
「津波被害が大きかった沿岸部」の陸前高田市では、主にアジア系と思われる「外国人」の方々を時折見かけます。接点があるわけではないため想像の範囲に過ぎませんが、外国人技能実習生や「外国人花嫁」の方々かと私は認識しており、李の説明に従えば、その認識(想像)もあながち間違っていないのかと思われます(違うかも知れませんが)。そもそも私がそう認識(想像)するのも、これまで「被災地」で活動をする中で、「外国人花嫁と結婚」という言葉・話をよく耳にしてきたためでした。
東北で「外国人花嫁」が(比較的)多いのは、東北という地域が抱える脆弱性と関係していると言われています。
東北はもともと「人口減少、高齢化、貧困化という問題」を抱えており、「長時間の重労働、低収入、男尊女卑の風潮、プライバシーの欠如、古い慣習、娯楽のなさなど」多くの抑圧を強いられることとなった女性たちが地域を離れ、「嫁不足」が深刻化したと言います(安藤純子 2009 農村部における外国人配偶者と地域社会ー山形県戸沢村を事例として 東北大学『GEMCjounal』1:26-41)。
その「嫁不足」の解消手段として登場するのが「外国人花嫁」の存在で、東北では「一九八〇年代中盤からのアジアの途上国の女性とのお見合い結婚」が行われるようになっていきました(『災害〈後〉を生きる: 慰霊と回復の災害人文学』)。
2000年代に入ってからは
後継者の出産と育児への期待から介護、または家事労働としての役割にその比重が移行することにより、移住女性の来日時の年齢も高くなった
と言われ、
東北の社会問題の穴を埋めて来たのは、女性たちであり、その底辺には移住女性達も存在している
と李は指摘します。
こうした結婚移住による「外国人花嫁」は、日本人の家族になるといった「同化の圧力」の強さや「仲介型国際結婚」などに対する「偏見」から、”早く地域に馴染む”ために「外国人としてのアイデンティティを隠し、「日本人の嫁」としてのアイデンティティを強調する」こととなりました。特に韓国や中国からの結婚移住女性たちは「見た目では日本人とほとんど変わらないという利点を利用し、自分の外国人としてのアイデンティティを隠す」道を選ぶようになったと言います。
李はこのような
自ら「外国人である自分」を表に出さないようにすることを「戦略的不可視化」
と称し、東北における「外国人(花嫁)」が「不可視化」の問題を抱えていると指摘しています。
この「(戦略的)不可視化」は、「親しい関係である外国人同士でさえ、お互いの本名は知らないことが多い」といった状況を生むなど、様々なリスクを孕み、以下に書くことになりますが、震災時にそのリスクや脆弱性が浮き彫りになりました。日本社会の抱えている問題のしわ寄せが、災害によって東北の「外国人(花嫁)」に強く向かったひとつの例と言えるように思い、同時に、こうして要請された戦略を、あたかも「外国人花嫁」が望んでするようになったかのような自己責任論に転化してしまうのが今の日本社会であることもー中央と東北の関係・植民地主義的なものを視野に入れつつーよく考えなければならないのではないかと私は思います。
東北における「外国人」について調べていると、『朝鮮人虐殺・矢作事件』という書籍と出会いました。
矢作事件とは、昭和7年5月4日に陸前高田市の矢作町で起こった朝鮮人虐殺事件のことを指し、タブーとされ、忘却と風化へと進んでいく事件の記録を残したのが、上記の書籍となります。
事件は国鉄大船渡線の建設工事現場において、日本人労務者が朝鮮人労務者の飯場を次から次へと襲う形で起こったとされています。
著者が新聞記事をもとに再現した記述には
百数十名の日本人が、朝鮮人土工の飯場を襲い、三名を殺害、二十一名に重軽傷を負わせた。この凄惨な事件は、三陸地方の一寒村と、その周辺の町村に、大きな衝撃をあたえた。
とあり、建設現場の人の証言に
飯場は、日本人飯場と朝鮮人飯場とそれぞれ別で、云ってみれば、そこでは朝鮮人たちは、まあ、動物扱いであった。
朝鮮人飯場は、ひどいものだった。土間にムシロを敷いたところが寝床であった。日本の稼業人などはみな民家を借りているから、建物の床のある部屋に寝ていた。それだけの差があった。
朝鮮人は、どんなにウデがよくても、すべて「人夫」で、稼業人の三分の一ぐらいしか賃金をもらえなかった。別に「労働組合」もなにもなかった。当時そんな組織があろうはずもなかった。
といったものが残されています。
「外国人」を非人間化し虐殺するといった歴史が-小さな地域におけるひとつの事件であろうとも-東北にあることは、東北における「外国人」を捉える上で決して見逃してはならないことだと私は考えます。
外国人差別の問題
日本における「外国人」、そして東北における「外国人」の現状には「外国人」差別の問題が根深く存在していることを見てきました。
災害は、新たな問題を引き起こすのではなく、その社会が抱えている問題を新たに可視化すると言われている
と李が言うように-私はこのことをtheLetterで書いてきたつもりであり、これからも書いてく予定です-災害は平時の問題をあぶり出し、可視化し、そしてエスカレートさせていきます。
中でも「外国人」差別の問題は、災害時に発生するデマとくっつくことで(『災害後と治安』でも少し触れたのでよろしければ)直接的な命の問題へとつながっていく恐れがあるものです。
そのことを最悪の形で顕にしてしまったのが、関東大震災での朝鮮人虐殺の歴史と言えるでしょう。関東大震災の朝鮮人虐殺は、震災時に発生した「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こした」などの流言飛語・デマによって、200人以上の朝鮮人や中国人が殺された事件であることはあまりにも有名な話かと思います。未だに犠牲者数については明らかになっておらず
公的な記録に残らなかった犠牲者も数多く、2011年の内閣府の専門調査会報告書では朝鮮人の死者は数千人、中国人は650人以上とする説
もあるとされ、目撃証言を集め追悼碑を立てるなどの運動をする人(西崎雅夫)がいる傍ら、歴史修正主義の台頭が見られるようになっています(強い危機感を抱きます)。
上記番組では、関東大震災のデマがどのように朝鮮人虐殺につながっていったかを、当時東京にいて震災と虐殺の様子を現場で見ていた水島爾保布と江馬修のふたりの小説家の視点(作品)からたどられていました。
被災して情報が不足する中、不安や怒りから専門家の情報よりも根も葉もないうわさに耳を貸してしまい、いつの間にか、そのうわさが目の前で見た事実にすり替わってしまう様子。そして、そのうわさは人々の間でものすごいスピードで変化しながら都合よく解釈されていき、実際の行動へとつながってしまう様子。こうした様子がふたりの作品にはリアルに描写されており、朝鮮人の暴行や放火の流言に至っては、地震発生から数時間のうちにはすでに警察に報告がされていたとも番組では紹介されていました。
水島爾保布の息子は
「朝鮮人が火をつけるんですって…そりゃそうかもしれない。日本人はふだんから朝鮮人をいじめ過ぎますよ。僕毎日見てるんです。」
というセリフを残しており、このセリフには韓国併合と抵抗運動の時代背景が反映されていると考えられますが、ヘイトデモをはじめとする「外国人」に対する”いじめ”は今も確かに存在し、決して遠い話ではないように思います。
災害情報論を専門とする関谷直也氏は、災害時に流言が広まる理由を
「人々の関心はバラバラで、それぞれの人がいろいろなことを考えているが、事故や災害のときはみんなが一斉にそのことについて関心を持ち、不安になる。多くの人が共通の心理を持っている状態は地震など特殊な状況でしか起こらない。そういった時に流言というのは広まりやすい」
としており、かつ、
「自分たちが苦しんでいる状況に置かれていることの解釈の一つの方向として、当時差別意識を多くの人が持っていた朝鮮人が原因であるというふうにどこかで結びつけてしまった。」
と、朝鮮人虐殺事件が起きた背景を分析していました。
(一応)平時である今も、物価高などで苦しい状況を「外国人」のせいだと結びつけてしまう言論がSNS等では特に飛び交っているように思います。生成AIやフェイク動画などが拡散され、差別で収益を得られてしまう仕組みとなっていることがそれを加速させてもいるでしょう。こうした時代において、災害時に流言・デマが広まることはもはや避けられないことだろうと私は考えます(逆に普段から目にする機会が増え、何も信じられないといった違うフェーズにたどり着くこともあるのかも知れませんが…)。それが差別意識と結びついて、憎悪のピラミッドを一気に駆け上がってしまわないように=災害がそのスイッチとなってしまわないように、平時から差別の芽を摘んでいかないといけない。非常に険しい道ですが、そのような努力が求められているのだろうと考えます。
差別の問題はその対象が広がっていくことも問題と考えられ、関東大震災では標準語を話さない日本人などが朝鮮人と間違われて殺されたこともまた有名な話かと思います。
「日本人かどうか」が、「日本語を話せるかどうか」「日本人らしい身なりかどうか」などへと広がっていくことを思えば、当事者でない人はいないため、「外国人」差別の問題は災害時のみならず平時からすべての人の命の問題として考えられる必要があると言えます。
外国人にとっての災害 「3つの壁」
「外国人」差別の問題は災害時に直接的な暴力として顕在化するだけではありません。平時の社会構造の中に組み込まれた差別が、災害時に命の問題に直結することもあります。
たとえば、阪神淡路大震災では「外国人」の犠牲者が多く出たとされており、その理由は
直下型地震で、その被害の多くが建物の倒壊と火災によるものだったことによって、最も脆弱な住宅地に住んでいた貧困層の在日コリアンや高齢女性、留学生が多く亡くなったためだといわれている
と説明されています。
同様の理由で女性(母子家庭等)の犠牲者が多かったとも言われており、これは平時の賃金格差の問題ー差別の問題-が命の問題に直結してしまった例だと言えるでしょう。「外国人」労働者の賃金の低さ (https://ghrlab.com/article/foreign-workers-wage#:~:text=1%2D1.%20%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E3%80%81%E5%A4%96%E5%9B%BD,%E4%BA%BA%E3%82%88%E3%82%8A%E4%BD%8E%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82)も平時の差別の問題と地続きと考えられます。
差別について少し整理すると、上智大学の出口真紀子教授は差別には直接的差別・制度的差別・文化的差別の3つの形態があるとしています(https://www.pref.mie.lg.jp/JINKYOUI/HP/m0207800035.htm)。
災害時に「外国人」が経験する壁も3つあるとされ、「言葉の壁」「制度の壁」「心の壁」と言われますが(『バリバラ阪神淡路大震災 外国人が直面したバリア』など)これらは3つの差別形態が災害時に「外国人」に独自の形で立ち現れるものだと私は考えています。
たとえば、災害時には「外国人」であることを理由に避難所や仮設住宅への入居が断られるケースがあると聞きます。これは「制度の壁」や「心の壁」(仮設住宅への入居などに関しては、日本語が話せないことから行政に申請ができないといったパターンなども考えられるため、その点では「言葉の壁」の問題でもあるかもしれません)でありつつも、平時から「外国人」への入居を断る差別(3の差別形態)が災害時に顕在化した問題だと考えられます。
「言葉の壁」についても、平時から英語の案内表記が不足していると捉えることもできれば、
日本は、国際結婚は個人の問題とし、移住女性のケアにも消極的なスタンスを維持してきた。それゆえ、移住女性たちの日本語習得も、まったくといっていいくらい個人の努力に依拠している。
と李が指摘するように、平時で(制度的に)障壁となっている問題が、災害時により高い壁となって立ちはだかっていると理解・整理ができるように思います。
万能で完璧な社会など当然ありませんが、「外国人」なしでは成り立たない社会において、「外国人」視点の防災は欠かせません。昨今、インバウンドへの避難訓練や自治体等でやさしい日本語教室が開かれるといった取り組みは聞かれるようになり、重要な取り組みと考えますが、それが差別の問題と地続きであるといった認識はまだまだ不足しているように私は感じます。
出口教授は差別の問題と向き合うにあたって「労なくして得られる」特権の教育が必要としており、私も同様に考えています。冒頭で私は、ともに活動した外国人女性の語りから「日本語を母語としている私には見えないことがあることを私は彼女から教わりました」と書きました。これは日本語を母語とすることで「苦なくして得られている」特権が私にはあったと気付かされたという意味です。彼女の語りにはたとえば
「津波注意報はわからないし、こわかった。地震は生まれて初めてでアミューズメントパークのよう」
といったものがあったのですが、地震が当たり前にある日本で生まれ育った私には、この感覚は全く想像がつきませんでした。「アミューズメントパーク」という表現は一見愉快な表現のように見えますが、地震を知らずに体験すれば、確かにそう表現できるような気がしますし、何がなんだかわからない恐怖に対処するための表現だったとも言えるのかもしれないと今になって考えます(実際はわかりませんが)。
「津波注意報はわからない」というのも(私にはわかる)「津波」そのものや「注意報」そのものが「わからない」ということかもしれませんし、「つなみ」や「ちゅういほう」という言葉の意味自体が「わからない」ということだったのかもしれないと振り返ります。そのあたりを深く聞けていなかった私自身を恥ずかしく思いますが、それは私が「わからない」とはならないから、考える必要がないという特権があったから聞けなかったのだろうと思います(反省したくなります)。
宇都宮大学留学生・国際交流センターの飯塚明子准教授は、「避難」という言葉は日本語初級者には難しいと指摘しており、
「『逃げる場所』『逃げる所』と言うと分かる人もいるかもしれません」
「日本人は“避難”と聞くと“避難所に逃げる”ことと思うが、外国人観光客は“避難=国外に脱出する”と思う人もいます」
としていました。
この指摘に私は「確かに…」とハッとさせられ、母国語が通じるかどうかは、その言葉が指す意味世界(文化)を共有できるかどうかでもあるのだなと考えさせられる機会となりました。共有できる世界で災害を経験することと、共有されない世界で災害を経験することとでは「こわかった」の質もまた全然違うものだろうと想像ができるように思います。
こうした経験から、私はマジョリティ側が「外国人」(マイノリティ)にとっての災害(防災)の視点を学び、特権に気づくことで、「外国人」が災害時も安心して暮らせる社会に近づけられるのではないかと考えます。「外国人」が災害時にも安心して暮らせる社会は、本当の意味で災害に強い社会なのではないかと思うのです。3つの壁は平時の3つの差別形態と地続きであり、特権を理解することで、その障壁を取り除く、少なくとも低くすることができるのではないかと私は考えます。
東日本大震災で「外国人」に起こったこと 「外国人花嫁」を中心に
東日本大震災では福島原発事故の影響もあってか、滞在外国人の動きについて最初に報道されたのが
各国の大使館や領事館の呼びかけを頼りに母国に避難する外国人たちの姿であった
と言われています。
その報道は
混乱の渦中にある被災地の負担を減らしたと肯定的に評価する意見があった一方で、日本人家族を捨てて逃げる外国人花嫁という批判もなされた
と言われており、「外国人(花嫁)」をのけ者とするまなざしがそこには見られるように私としては感じます。
新聞においては
まるで、被災地の結婚移民女性たちが皆、帰国しているかのような内容
が記載されていたと李は指摘しており、このことは震災直後、大手メディアが「外国人」への差別意識を煽り、エスカレートさせてしまう恐れがあったことを示唆しているように思えます(平時から見られることだと思いつつ…)。
ただ、李は、東日本大震災では「災害地域の外国人問題はそれほど大きな社会問題とならなかった」としており、
災害直後、避難所での放火など外国人犯罪を吹聴するようなデマはあったが、それが事実ではないことはすぐに確認されていたし、避難所の中でも目に見える外国人差別や孤立はほとんど報告されていない
としています。
このことは明るい話題に思える一方で、その理由は上記した東北の「外国人」が抱える「不可視化」の問題とつながっていることが考えられます。
李は
今回の災害で外国人に対する差別と孤立の問題があまりなかったのは、津波被害地域の沿岸部に滞在している外国人の殆どが、日本人の配偶者を持つ結婚移住女性か、あるいは産業研修のために集団生活をする研修生であったからと言える。すなわち、彼らのほとんどは日本での生活において日本人の家族やあるいは管理者がいて、災害時には直ちに周辺の日本人からの助けを受けることができていたと思われるのである。
と指摘しており、「不可視化」されてきた東北の「外国人(花嫁)」たちが、「戦略的不可視化」によって「日本人の嫁」で在ることにより、結果「外国人」差別から守られたと考えられるのです。
これまで私は東北「被災地」で出会う人が「誰々さんのところの誰々」といった具合に(多くは家族や職場の)つながりの中で語られる様子を確認してきました。その様子から「外国人花嫁」も「誰々さんのところの嫁」として語られることが容易に想像でき、李のこの分析に頷けるように感じます。
「助けを受けることができた」のは何よりであり、地域の力と考えることができますが、上記したように「不可視化」の問題は震災によってその問題の深刻さを浮き彫りにもしました。そのひとつが「外国人(花嫁)」が「外国人」としての必要な支援へとつながれないという問題でした。
記事の冒頭で私は「外国人の「被災者」と言葉をかわす機会が私にはあまりなかった」と書きました。私はこのことを自分が「外国人」に積極的にアプローチしなかったからと振り返っているのですが(それはそうだとして)李が『不可視化』の中で語るエピソードを読み、それだけではないのかもしれないと考えを改めました。そのエピソードというのは、東日本大震災で支援に入ったある支援者が「外国人がいない」「どこにいるかわからない」と言っており、それに対して李が
「東北に外国人がいない」わけではない。「見えない」のである。
と応答していたというものです。
東北の「外国人」は「不可視化」されている。それは家族や管理者に守られているとも言えますが、外に開かれていない・外とつながれていない状態だとも考えられるため、「外国人」の「被災者」と支援者(外の人)が出会うのは非常に難しかったと考えられます。
この依存先の少なさは、「言葉の壁」や「制度の壁」の問題を深刻化させることにもつながりました。李は東日本大震災で被災した外国出身の移住女性の聞き取りから「言葉の壁」に関する共通の悩みとして
今までの生活基盤が津波によって打撃を受け、仕事を失った彼女らに次のステップを踏む「社会文化的資源」がないということ
があると指摘します。
ここでいう「次のステップを踏む」とは、たとえば「仕事を見つけること」などが該当すると考えられますが、日本社会で「仕事を見つける」ためには、情報を入手し、求人にアクセスして履歴書を書いて提出するなどの手続きが通常必要とされます。
これらの手続きは、日本語を母国として暮らす身にとっては特に問題なく対応できることだと考えられますが、「外国人」にとってそれらはすべて「言葉の壁」として立ちはだかります(「外国人」でなくても障壁となる人も当然います)。求人情報を入手することはもちろん、履歴書の書き方や実際に書くことは言葉や文化が違っていれば非常に困難であり、サポートが必要となることは明らかです。しかし、災害時は誰もが手一杯の状況となるなどから、そうしたサポートが不足、あるいは後回しにされがちになります。家族や管理者等がサポートをし、問題なく動くことができた「外国人」もいただろうと思いますが、そういうケースばかりでは決してないでしょうし、「不可視化」によってサポートとつながるのが困難であったとすると、障壁はかなり高いものであったと考えられます。
記事の冒頭で「私が何を見ずに済んでいたのか」と書きましたが、これらもまた母国語が通じる地で暮らす特権であり、私はそのことを見ずに済んでいたのだと反省したい気持ちです。支援につながることができず、障壁が立ちはだかった状態は、”住民主体”とされる復興においてそこに住む「外国人」の声が聞かれない可能性も暗に示していると思います。このことは「外国人」にとっての災害(防災)の重要な教訓として残されるべきものだろうと私は考えます。
次に「不可視化」によって浮き彫りになった問題として指摘されているのが、安否確認に関することでした。
李は
震災以降、各地域の国際交流協会と各国大使館は、自国出身の人々の安否確認を行った。特に大使館経由の安否確認は、外国人の本名を使う。しかし、東北に住む韓国・中国の結婚移住女性のほとんどは通称名を使っている。親しい関係である外国人同士でさえ、お互いの本名は知らないことが多い。すなわち、本名で外国人女性の安否を確認することは、非常に困難なことだったのである。
としています。
あまりにも大きな被害が発生し、多くの人が犠牲になった東日本大震災では、安否確認は非常に困難を極めたと考えられます。「◯日後にやっと会えた」といった話や、大切な人を探すために信じられない距離を歩いて移動した話などを私自身これまで伺ってきて、安否確認に伴う過酷さと絶望は想像を絶します。その上で、「不可視化」された「外国人」のそれはまた、質の違う困難さをもたらしたことと想像します。
『涙にも国籍はあるのでしょうか』には、東日本大震災の「外国人」犠牲者の数が把握できていない実態をもとに行われた取材の記録が書かれています。「外国人」の犠牲者が正確に把握されていない、日本の冷たさがそこには綴られていました。
犠牲者が犠牲者として認識されないことは、その人を大切に思う人たちにとって、心身に計り知れない大きなダメージをもたらすことが想像されます。また、犠牲者として申請できないことは、現実的な問題で言えば災害弔慰金を受け取れないといった事態をもたらす場合もあります。著者の三浦英之はこうした実態から
津波の犠牲になったのは決して亡くなった人ばかりではない。一連のデータは生き残った外国人もまた、過酷な現実を生き抜かなければならなかったということを意味している
としてます。
また、「外国人花嫁」はその背景からも想像できるように、家庭の中で従属的で弱い立場に置かれていることが考えられます。それは配偶者を失ったときに厳しい状況に立たされることと同義であり、李は
東日本大震災で突然夫を亡くしてしまった外国籍女性たちの中には、滞在許可の更新ができず、そのまま日本を離れざるを得なかった人もいた。
と例をあげています。こうした例は「逃げる外国人花嫁」という見方が、どれほど一面的な見方であるかを突きつけており、「不可視化」の問題と地続きであると考えられます。
弱い立場に置かれるということは、支配的な関係に置かれるというリスクが高いことでもあり、DVの問題などを抱え、震災後により苦しい生活を強いられた「外国人(花嫁)」が多くいたであろうことも想像されます。一般的に災害時にはDVが深刻化や増加することは言われており、「不可視化」のもとに起こるそれらはより把握しづらく、支援につながることも妨げられたでしょう。
このような東北の「外国人花嫁」が東日本大震災で経験した脆弱さを李は以下のようにまとめています。
東日本大震災で明らかになった、移住女性たちの脆弱さは、①日本語をはじめとする日本で生きていくための資源獲得ができていないこと、②社会の偏見などによって自らを不可視化していたこと、③制度的に移住者の人権が十分に守られないことに集約できる。そしてこのことは、日本でよく言われている外国人が直面する「三つの壁」、つまり「言葉の壁」「心の壁」「制度の壁」そのものと言える。
(略)筆者としてはこのような砕けた表現は、わかりやすさの故に伝達力は強いが、本質を見えにくくすることもあると思える。筆者からすれば、日本社会で外国人移住者が直面する「言葉の壁」「心の壁」「制度の壁」は、そもそも外国人移住者に「シティズンシップ」、つまり社会構成員としての同等な権利がないからに他ならない(単に「国籍」を意味しない、T.Hマーシャル「共同体の完全な成員資格という概念と結びついた基本的な人間の平等」「共通の法により権利を与えられ保障される自由な人間」同士の絆の上で行使されるもの)。
そして、
日本政府は「生活者としての外国人」を「移民」として認め、「移民」の現状把握をしっかりと行い、移民一世には日本語支援や就労支援、そして移民の子どもたちの教育支援、及び心のケアなど必要な社会包摂対策を作るべきである。また、受け入れられる外国人労働者の人権や権利もしっかり明記し、彼らの権利が侵害されないようにしなければならない。難民認定申請書の問題も含め、とりあえず安い労働力としての外国人の受け入れを辞め、共に生きる道へと目を向けなければならない。
と声を上げており、私はこれらに全面的に同意したいと感じます。
東日本大震災で「外国人」に起こったこと。そこから見える課題は教訓として残され、改善されていかなければならないと痛感しています。
災害によって動くこと
平時の「外国人」差別の問題・「不可視化」の問題が、災害によって「外国人」の前に立ちはだかってきた様子を書いてきました。このことは災害によってそれらの問題が可視化されたとも言え、それは災害は大きな障壁やダメージをもたらすものの、その一方で取り組まなければならない問題として認識される可能性があることも示唆しています。
そもそも「外国人」への災害支援がはじまったきっかけは、阪神淡路大震災と言われており(『バリバラ阪神淡路大震災 外国人が直面したバリア』など)「多文化共生」という言葉が認知されるようになったのも阪神淡路大震災だったと言います。多言語センターファシルというNPO法人はその後も外国人支援を続け、2024年の元日に発生した能登半島地震の間接的なサポートも務めたとされ、それは純粋にすごいことだと私は思います(https://www.asahi.com/articles/ASS1C42BJRDXOXIE00L.html)
東日本大震災においても、多くの支援団体や支援者が現地に入ったことで、
これまで不可視化の中にあった結婚移住女性たちが自分たちを「可視化」する機会となり、彼女たちの活動はこれまでには経験することがなかった社会構成員としての地域社会の承認を得るものへとつながっていた
と李は指摘しており、それは混乱や新たなダメージをもたらしたものの-私はこのこともtheLetterで書いていきたいと思っています-大切な変化であったとも言えるように思われます。
李は
新たな可能性を提示したのが、外部支援団体の「外国人向け特別支援」であった。これまでは手掛けられなかった東北の外国人移住女性たちの就労支援が行われたことは、東北の多文化共生において大きな進展のきっかけとなったといえよう。
としており、たとえば、フィリピン人女性=水商売といった(ネガティブとされる)イメージに固着された移住女性が、介護職などの違う選択肢を見つけ、活躍する例などがあげられています(水商売に対するネガティブなイメージについては問題の本質は差別の構造にあるように思いつつですが…)。(『東北の結婚移住女性たちの現状と日本の移民問題 不可視化と他者化の狭間で』 高畑幸(2019)「在日フィリピン人と介護労働ー社会的評価獲得の手段として」、『比較家族史研究』33号:8-31頁髙谷幸・大曲由紀子・樋口直人・鍛冶致・稲葉奈々子(2016)「東日本大震災・被災三県の外国人住民ー2010年国勢調査のデータ分析ー」、『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第41号、43-60頁)
その他にも李は
何人かのキーパーソン移住女性により、被災地に同国出身の移住者組織が作られたこと
なども震災後に見られた変化としてあげー「キラキラ希望の災害復興ストーリー」として語るだけではいけないと釘を差しつつー震災によって声を出せるようになった「外国人」の存在に注目しています。
私はこれらを「よかった」と語るだけで終えずに、教訓として残し、継続できるような制度の枠組みを作るなど、議論を深めていく必要があるだろうと考えます。現に移住者組織などは資金調達などに課題があるとされており、震災後のバブルの力でできただけ、その時に力がある人に頼っただけの個人(ら)の努力の問題で済ませてはいけないように思います。「災間」とよく言われますが、次に災害が起こるまでの平時のうちに、これらの教訓を活かし、仕組みづくりに落とし込んでいくことが求められていると考えられます。
宮城県女川町に研修に来ていた中国人実習生一六二人全員が津波の被害から救われた実話が、『なぜ一六二人全員が助かったか:大震災時女川町で津波に遭遇した中国人実習生』に記録されていますが、そこには震災前から日本語教育が行われていたことが残されています。こうした話を感動ポルノ的な美談で終えることなく、現実的に生かされることを願ってやみません(その一助になれたらと感じます)。災害が生んだポジティブ(とされる)変化、可視化したことを改めて整理し、地道な実践へとつなげていくことが求められるのではないかと私は考えます。
厳しい時代に「外国人」との共生を考える
災害は深刻なダメージをもたらしつつ、確かに「外国人」(だけではない)にとってポジティブな変化ももたらしてきたと考えられます。東北においては「外国人」差別の問題はそこまで見られなかったという指摘や女川の事例など、注目されるべきことがあるように思います。
しかし、私はやはり失敗から反省する視点を欠かしてはいけないのではないかと思っています。
東北で「外国人」差別の問題が見られなかったこと。これは「不可視化」の問題とつながっていると書いてきましたが、私は本当に差別が「見られなかった」と声高に語れるほどなのだろうか…と考えてしまいます。
震災から3年後の2014年に、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市では「石巻の多文化共生社会推進基本計画(案)」のパブリックコメントが実施されました。そこにはこのような意見があったと、李はしています。
「石巻市は石巻市民のために最大の行政サービスをすべき」
「震災直後の外国人による窃盗事件などもあり、将来的な治安悪化や侵略恐怖を懸念」
「『国籍、出身地等に関係なく、個人の生命、個性及び文化風習を尊重』というのは現実に則すると明らかに矛盾、『郷に入っては郷に従う』のが人類共通の理念」
こうした声は一部の声に過ぎないのかもしれませんが、東日本大震災によって排外主義が露呈されたと捉えることができ、決して見逃せないものだと私は感じます。
石巻市においては、震災後に外国人技能実習生へのパワハラや賃金未払いの問題も発生していたことは記憶に新しいです(https://www.khb-tv.co.jp/news/14743057)。
矢作町の事件のことも思えば、東北にも「外国人」差別が根深く存在していることが伺え、決して楽観視はできない状況のように感じます。
私自身、「被災地」にいながらクルド人ヘイトの話題を耳にしたり、「外国人」への「日本語うまいね」というマイクロアグレッションと呼ばれる日常的な差別を聞くことがあります。
悪意はなく、むしろ善意からきていることを感じながら、昨今の排外主義に強く傾く社会とのつながりに危機感を抱いているところです(おそらく私自身も日常的に差別をしてしまってきた・いるだろうと想像しており、恐ろしく思います)。
「外国人」を、日本人にとっていいか悪いか・いていいか悪いかと識別する上から目線もよく見られるように思いますが、これは震災後に
被災地で可視化され、被災からの復興に取り組んでいる外国人女性として紹介される彼女たちに、「よき外国人」「頑張る外国人」という新たなフレームが付けられた
といったことと地続きであると私は考えています。
メディアの報道はもちろん、研究者たちが取り上げた被災地の移住女性の多くは、頑張る外国人の姿であった。
とされ、それは案の定
そのフレームから外れた移住女性は「排他的」に扱われた。例えば、被災後に日本人の夫からDV被害を受けた移住女性は、彼女の若き時代の前歴が「よき外国人」ではないことから法的保護を受けられなかった。また、「よき嫁」ではないと噂された移住女性は仮設住宅内で孤立を余儀なくされた事例もあった
といった事態を生み出してきたとされています。
どの災害時にも「外国人」差別の問題は起こり(起こし)うるのであり、それは平時の問題があぶり出された結果であること。それはエスカレートする恐れがあり、そうした差別の問題は命の問題と直結していること。このことだけでも認識する必要があるのではないかと-非常に厳しい時代になってしまった中でー感じます。
災害においては、スフィア基準の権利保護の原則には「人びとが自らの権利を主張できるようにすること」があり、障害や日本語が母語ではない人、妊婦や高齢者などにも主張する権利は当然あり、そういう人たちを見過ごさないこととされています。誰もが支援者にもなりうることから、この原則も広く共有される必要があるでしょう。
最後に、内尾太一氏によると、東日本大震災は「チリでは家々を破壊し、北米では瓦礫の漂着とともに生態系に対するリスクを作った」とされ、外国にも被害をもたらしたことが報告されています(「津波の国際的な影響を考える:地球規模のリスクと私たちの防災」より)。また、福島原発事故の危機のときに、中国から大キリンと呼ばれる巨大なポンプ車が無償提供され、大いに助けられたことがありました。そして、被災による漂着物をもとに「外国」と新たなつながりを持つこととなった「被災地」もあり、「外国(人)」に向けるまなざしは排斥以外にもあるのではないかと私は考えていることを書いておきたいと思います。これからも様々な視点から「外国人」差別の問題、災害の問題について考えていきたいです。
以上が、『災害と外国人』となります。
実体験より引用がはるかに多くなってしまいましたが、それだけ私自身、「外国人」差別や「不可視化」に向き合えていないということかと感じました。今後も「わかりえない」立場から考え、災害が平時とつながっていることを(境界に立つ立場から)考えていけたらと思います。
お読みいただきありがとうございます。
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