反省的記録を綴る理由②復興に対する疑問

東日本大震災から10年が経ち、theLetterで「反省的」記録を綴っていくこととしました。その理由のうちのひとつである【復興に対する疑問】を綴ります。復興の在り方はこれでよかったのだろうか、復興とはそもそもなんなのだろうか…こうしたことについて、考えていることを書きました。
大塚光太郎 2021.12.08
誰でも

前回の記事で、東日本大震災(以下、震災)からの10年を通じて、私が今心の中に抱いていること(=「反省的」記録を綴る理由)の三つ

  • 支援の在り方に関する反省

  • 復興に対する疑問

  • 未来への懸念

のうちの【①支援の在り方に関する反省】について言及しました。

ここでは二つ目の【②復興に対する疑問】について綴りたいと思います。

宮城県気仙沼市に建てられた防潮堤

宮城県気仙沼市に建てられた防潮堤

***

復興とはなんだろうか…

私は震災後「被災地」に移り住み、現在も「被災地」で生活をしていますが、これまで被災三県と言われる福島・宮城・岩手県の様々な地域に訪れてきました。

もちろんすべての地域に訪れたわけではありませんし、時期も滞在期間も様々であり、それぞれの地域の現状を正しく知ることができているわけではありませんが、今「被災地」の多くでは「復興事業」として「新しい町」が作られてきて、いわゆるハード面での復興を終えようとしているところではないかと思われます(福島の帰還困難区域などを除いて)。

その「復興事業」では、海沿いに巨大な防潮堤が建設されたり、山を切り崩して土が運ばれその土を被災したエリアに運ぶなどして盛土がされたり、その土の上に大型で立派な箱物がずらっと並べられたり…といった復興が進められているのではないかと思われます。少なくとも私の暮らしている地域ではそうした復興の姿が見られます。

土地利用の規制など、様々な観点からこうした復興を進めざるを得なかったといった事情もあるのだろうと思われますが、正直に申し上げて、私の中では「こうした復興でよかったのだろうか…」という疑問が大きく渦巻いています。

震災後に移り住んだ私が言うセリフではないかもしれませんが、この復興の在り方は、もともとあった町の面影がほぼ残されることなく、「震災の被害で変わり果てた町」から「復興によってさらに変わり果てた町へ」と進められているもののように思えてならないためです。

こうした疑問を抱かせるひとつとして象徴的なものが、先述した海を覆う巨大防潮堤の建設です。

巨大防潮堤の建設は国の復興事業として行われており、被災した三陸沿岸部のうち総延長430キロほどのエリアで建設が進められています。その高さは10メートル以上であるものも多く、地域によっては高さを低くしたり建設を拒否したりすることもありましたが、防潮堤建設の反対意見が取り入れられなかった地域もあると言われます(巨大防潮堤と検索すると多くの記事が出てきますのでそれらもご参照ください)。

巨大防潮堤に反対する意見の多くは、建設費や維持費の問題、または「景観を損ねる」など様々挙げられるわけですが(実際に私が聞いてきた声については今後書いていきます)、私がこの件を「当事者・住民たちによるまちづくりが実現している結果」なのか、つまり、「復興の在り方に対する疑問」を抱かせる象徴的なものだと述べる理由は、復興が「住民の暮らし・生活文化に沿うかどうか」が基準で進められていないことを示していると考えるためです。

人によっては、この巨大防潮堤の建設は「二度とあの悲劇を繰り返さない」ために相応しいものであるように見えると思います。

しかし、私からすると―正確には私がこれまで聞いてきた生活者の声や実際の生活を通じて形成された感覚からすると―この巨大防潮堤では「あの災害を終わらせることも、なかったことにもできない」のに、「あの災害を終わりにし、悲劇をなかったことにしようとしている」もののように感じます。政策を進める側と(一括りにはできないものの)生活者との間には大きな「ずれ」があり、そうした「ずれ」が自覚されないままに「復興」が進められてきたように私には映っています。

それは本当に「復興」と呼べるのだろうか、「復興」と呼んでいいのだろうか…そもそも「復興」ってなんなのだろうかと思わされるのです。

***

誰のための復興か―災害文化と地域の尊厳を思うー

震災で被災した三陸沿岸部の多くは農漁村であり、豊かな歴史や文化を有している地域です(そうでない地域などないのですが)。

山口弥一郎の著書『津波と村』では、三陸沿岸部のことを「津波常習地」という言葉で記されています。震災後、この『津波と村』を復刊させた、民俗学者であり東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市ご出身の川島秀一氏は、「常“襲”地」ではなく「常“習”地」という漢字が使用されていることについて、著書『海と生きる作法―漁師から学ぶ災害観』の中でこのように言います。

常習地の習うは慣れるにも通じ、津波を生活文化の中に受け入れている積極的な意味合いの言葉であると思われる。それは、三陸沿岸に住む者の心に即した言葉であり、自然に対して無理に対立したり、避けたりすることではなく、飼い慣らしていく発想でもあった。
『海と生きる作法―漁師から学ぶ災害観』

海なし県で育った私にとって、「海とともに暮らす」という感覚・生活文化は全くわかり得ないものでした。

そんな私であっても、これまでの「被災地」での暮らし―多くの方たちとお会いする中でーを通じて、川島氏のこの言葉の意味が少しだけわかるようになってきたように思います。

豊かな歴史や文化と書きましたが、「海とともに暮らす」(災害)文化がある地域には、そうした地域ならではの暮らしがあります。それはつまり地域ならではの復興の在り方があるということでもあります。

また、地域には「地域の尊厳」のようなものがあると私は考えており、「開発」という名の「破壊」を進め、高度経済成長期のようなまちを作れば「復興」となるわけではなく、「被災者」の尊厳が守られねばならないのと同様に、地域も「地域の尊厳」が守られねばならないのではないかと考えています。

災害復興に関する言及ではありませんが、旅する民俗学者である宮本常一は『民俗学の旅』で以下のように述べています。

私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
『民俗学の旅』

私が抱いている疑問は(烏滸がましくも)宮本氏のこの感覚と近いものがあり、この「復興」は果たして「誰のための復興」なのだろうかと思うのです。上記したように、「震災の被害で変わり果てた町」から「復興によってさらに変わり果てた町へ」と進んでいるこの状況について、川島氏の言葉を借りれば

いつの世でも、自然災害の後にやって来るのは「人災」であった
『海と生きる作法―漁師から学ぶ災害観』

と言うことができてしまうのではないだろうかと感じ、被災によって失われたものに加えて、復興によってさらに失われていくものがある現実に強い危機感を抱いています。

震災後の被害の大きさを目の当たりにして、元の町には戻れないこと、また、変化せざるを得ないことについては、当事者・住民は痛いほど理解をしていたことと思います。

元の町は人口減少等の影響でいわゆるシャッター商店街となっていた地域も多くあったと思われるため、そういった町に「戻す」ことを望まないという人たちがいることもまた事実と思います。

しかし、だからと言って、もともとあった地域の歴史や生活文化といったものがまるで「なかった」かのように扱われる復興の在り方は「当事者・住民たちによる(望む)まちづくりが実現した結果」と言えるのでしょうか。

このことを「反省的」に考えねばならないと私は強く思います。

***

人間の復興を考える―住民主体・民主主義の重要性と資本主義の限界を思う―

では、どのような町にしたらよかったのか、どのような「復興の在り方」が正しい復興の在り方だったと言えるのでしょうか。代替案を持っていないくせに卑怯だと言われるかもしれませんが、残念ながらそこに答えはないように思います。しかし、それこそがある種の答えではないかと私は考えています。

国は震災後の復興に関して「創造的復興」という言葉を掲げ目標としました。

この言葉は阪神淡路大震災のあとに使用されるようになった言葉ではありますが、私はこれを「力を持った人たちによる、力を持った人たちのための復興目標」ではないかと思っています。

力というのは、“特権”や“権力”のことであり、経済的な力なども無論含まれているものです。

「復興」の目指すべき地点を描かないといけないことは事実だと思いますが、その描かれる姿を誰が決めるのかーその誰かが自身の“特権”や“権力”に自覚的であるかーということは大変重要な視点と考えます。

なぜなら「復興」というのは住民主体・民主主義のもとでなされていくものでなければならないはずだからです。

政治学者である五野井郁夫氏は著書『10歳から読める・わかる いちばんやさしい民主主義』で

民主主義もよりよくしようと日々考えて参加し続けなければ、あっという間に(花が枯れるのとかけて)かれてダメになってしまいます
『10歳から読める・わかる いちばんやさしい民主主義』※()は大塚追記

と言い、同じく政治学者の宇野重規氏はこれまでの著書で、

民主主義は進んでいくものである
『民主主義とは何か』『民主主義のつくり方』より大塚意訳

として、民主主義の実現には私たち住民の努力が必要であることを示しています。

民主主義の国である(はずの)日本においては、不完全であり更新し続けていく必要のある民主主義のもとで「復興」は進められていくものです。

つまり「復興の在り方」に答えというのはないと言えるでしょう。

人々が参加し続け、話し合い続けていくことで「復興の在り方」が見えるようになっていくのです。繰り返しになりますが、私の感覚では残念ながらそのように進められていない「復興の姿」があるように思われ、それは「誰のための復興」なのかという問いになっているということです。

では、なぜこうした「復興の在り方」になっているかについて考えると、その背景の一つにあると私が考えるのが「資本主義の限界」です。

このことや、それ以外の背景・理由についても今後書いていく予定であるため詳しく書きませんが、資本主義はあらゆるものを無限に「資本」とし、当然「資本」には力が付与されます(そういう構造になっています)。

被災して「弱った」地域や人もまた「資本」の対象とされるといった現実があり、「資本」が力を握る中においては、「復興事業」等によって膨大な「資本」が動くことも相まって、「資本」を中心に物事が動いていくのです。

それは住民主体や民主主義の「復興」よりも、「経済(資本)」の視点からの「復興」が優先される可能性を示しており、たとえば、いかに観光客を誘致して町に「経済(資本)」が落ちるか、いかに(外観上)立派な町にして外の人に注目をしてもらえる町にするか、大型の企業を誘致して「資本」を獲得するかなどにエネルギーが費やされる可能性を示しています。

実際に人・数が多く集まることこそが「正しい復興(政策)」であるかのように思わされ、「復興」(というそもそも答えのないもの)の基準が「経済(資本)」で測られて語られるものとされがちです。

もちろん、観光客に来てもらえるような町にしていきたいといった気持ちもあるでしょうし、「観光で経済を回す」という視点は大事なことであり、必要な政策であるとは思います。

しかし、資本主義社会で語られる「創造的復興」とはこのようなもので留まり、結果、ゼロサムゲームで勝ち組と負け組を地域間で作るだけのものではないだろうかと私は考えています。※したがって、「創造的復興」に答えがあるとしたら、勝ち組になることが答えなのかもしれません。

「被災地」や「被災者」はどこかの地域よりも勝ちたくて(勝ち組になりたくて)「復興」を目指しているのでしょうか。そんなことはないはずです。そこに「復興」における「資本主義の限界」があると私は考えます。

「答えがない」中で、しいて「答え」を上げるとしたら、こうした「創造的復興」的な「復興の在り方」に反する(と見られる)考えとしてあるのが「人間の復興」という考え方です。

「人間の復興」とは関東大震災の際に当時の経済学者であった福田徳三が主張したものであり、福田氏は

人権、生存権という言葉もなかった明治憲法下で、生きるための社会政策の重要性を主張した経済学者
『災害女性学をつくる』

であったとされています。

当時の『報知新聞』における「営生機会の復興を急げ」という寄稿では福田氏は

復興事業の第一は、人間の復興でなければならぬ
『報知新聞』「営生機会の復興を急げ」

と主張し、

道路や建物は、この営生の機会(生存するための生活と営業と労働)を維持し擁護する道具立てに過ぎない。それらを復興しても、本体たり実質たる営生の機会が復興せられなければ何にもならないのである。
『災害女性学をつくる』より「福田徳三研究」

と指摘したと言います。

福田の論じる「人間の復興」とは、生存と生活の基盤である生存権の確保、つまり、被災者の生存を守るための医療、生活再建のための住宅と仕事を最優先させた復興の重視である。
『災害女性学をつくる』

と考えられ、

(災害復興基本法試案では)「人間の復興」とはまずは「市民主権の獲得」であり、人間の尊厳を取り戻す営み、さらに被災地の自治を基調としながら、被災者個人の「自律」を回復することととらえられている。(略)被災者自身が復興の担い手となること、復興の意思決定の場に当事者自身が参画できる「市民主権の獲得」の道が開かれなければならない。被災者ファーストとボトムアップの復興こそが同試案の中軸である。
『災害女性学をつくる』

と、『災害女性学をつくる』の著者(編著者)である浅野富美枝氏は言及しているのです。

関東大震災の時の福田氏の主張と、それを基に現在について言及している浅野氏の指摘は、今進められている「復興」に対する再検討を迫っていると思うのは私だけでしょうか。

このことは、2年前に発生し今なお私たちを襲っている新型コロナウイルスによるパンデミックにおいても例外ではありません。

世界的な危機において、「命を守るのか経済を優先するのか」といったような議論が実際に巻き起こっており、災害・危機における対応の在り方については先送りできない問題となっているように思います。

アフターコロナと言われるフェーズとなりつつある今、そしてこれから、私たちはどのような「復興」を成し遂げるのでしょうか。アフターコロナの世界はどのような世界にしていくのか、その「復興の在り方」が問われています。「誰のための復興」なのか、「何のための復興」なのかを、民主主義のもとで創り上げていかなければならないのでしょう。あえて言えば、“特権”や“権力”に無自覚な層による「復興」であってはいけないのだと思います。

その意味でも、震災後の【復興に対する疑問】から目をそらさずに「反省的」記録を綴っていかなければいけないと思っているところです。

以上が、私が反省的記録を綴っていく理由【②復興に対する疑問】の概要となります。

次の記事では【③未来への懸念】の概要を書く予定です。

お読みいただき、ありがとうございます。

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