災害と支援物資

災害に関するテーマ記事。
ここでは『災害と支援物資』をテーマに、支援物資を送る・届ける上で考える必要があることについて考えたことを自身の経験を踏まえて、まとめました。
「支援物資」に関しては私は送る側しか実際の経験をしていない(現地での配布などはあるにせよ)ことから、少しズレた内容になってしまっているようにも感じます。その点、予めご容赦ください。
大塚光太郎 2024.01.13
誰でも

能登半島地震・津波発生から10日以上が経ちますが、「被災地」での支援物資を巡る様々な情報ー〇〇が足りないという情報もあれば、あるのに届いていないなどなどーが連日飛び交っています。政府の初動の遅さは批判せざるを得ないものであり、私としては大変腹立たしく思う日々ですが、批判はしつつも、少しでも「被災者」の方々が安心して暮らせるようになる支援が届くことを願うばかりです。

ここでは「支援物資」をテーマに、記事を書きたいと思います。

※theLetterの記事は私の経験(「被災地・被災者」から学んだこと)であり、ほぼ主観となりますので、あくまでひとつの参考程度としていただければ幸いです。

***

求められる緊急の支援物資

災害が起こると水道・電気・ガスなどのインフラが停止し、道路が寸断されるなどして、地域そのものの動きが止まり、孤立したような状態になると考えられます。そのことは今まさに能登半島地震・津波の「被災者」が直面していることと思われ、「被災地」が機能不全に陥っている状況を私達も日々ニュースなどを通じて目の当たりにしているように思います。

指定避難所やそれぞれの家には備蓄している物資があるかと思われますが、使用すれば当然減りますし、物資を持っていない周囲の人を見て利用することに躊躇する気持ちが湧いてしまったり、避難所や自宅が被災した場合には備蓄品そのものにありつけなくなったりといったことが起こっていると想像されます(東日本大震災等の支援現場で聞いてきたことでもあります)。

こうしたことから、災害直後には生きるために最低限必要な物資=水・食料・衛生用品・衣類・その他生活用品などの物資が「被災地」に十分送られる(支援される)ことが求められ、国は「プッシュ型支援」という物資の緊急支援(輸送)をするよう、災害対策基本法に記載されています。内閣府のページには以下のようにあります。

発災当初は、被災地方自治体において正確な情報把握に時間を要すること、民間供給能力が低下すること等から、被災地方自治体のみでは、必要な物資量を迅速に調達することは困難と想定されます。
このため、国が被災都道府県からの具体的な要請を待たないで、避難所避難者への支援を中心に必要不可欠と見込まれる物資を調達し、被災地に物資を緊急輸送しており、これをプッシュ型支援と呼んでいます。
https://www.bousai.go.jp/jishin/kumamoto/kumamoto_shien.html

また、内閣府の防災情報には説明のスライドがあり、以下のように説明がされていました。

発災当初において、被災自治体からの具体的な要請を待たずに必要不可欠と見込まれる物資、いわば被災者の命と生活環境に不可欠な必需品を、国が調達し被災地に緊急輸送するもの。
( ◇東日本大震災等の経験・教訓から災害対策基本法がH24に改正、平成28年熊本地震において初めて実施)
・食料や乳児用ミルク、携帯
・簡易トイレ、毛布、生理用品、トイレットペーパー、紙おむつ等の基本品目のほか
・避難所環境の整備に必要な段ボールベッドやパーティション、熱中症対策に不可欠な冷房機器、感染所対策に必要なマスクや消毒液などを支援しており、その他災害の様態や被災地ニーズも踏まえて適切に支援する。
https://www.bousai.go.jp/taisaku/hisaisyagyousei/pdf/push_saigai.pdf

ここで重要なのは国がその責任・役割を負うということであり、国はそのために体制を平時から整えておき、緊急時には迅速に動く必要があるということです。

物資の輸送等は災害の状況によって左右されるのは当然ですが、あらゆる事態に備えることが災害大国においては重視されていなければならず、国はそれを重視してきたか、実施してきたかが今問われているのだと私は考えます。民主主義・法治国家である日本において、私たち国民一人ひとりはこのことを頭に入れておく必要があり、「国土並びに国民の生命、身体及び財産を災害から保護し、もって、社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを目的とする」(内閣府資料:https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/wxad/kensyu/h29/pdf/2-2-2.pdfより)災害対策基本法のある国としての動きを求める必要があるのです。冒頭に私が書いた批判はこうした視点があってなされているものとなります。

なお、緊急支援として現地に即座に入るNPO・NGO団体もあり、それぞれに支援物資が管理・搬送されることもあるため、「被災地」や「被災者」に物資が届くルートに関しては様々です。私達はそうした団体への募金・寄付を通じて、支援物資を間接的に現地に届けるという方法を持ち合わせています。

さて、必要最低限の物資と書きましたが、内閣府の説明からもわかる通り、「必要最低限」というのはすなわち「健康で文化的な最低限度の生活」ができるための物資を指しています。日本には憲法25条にその権利があることが明記されており、それは災害時においても当てはまる考え方だと言えます。また、熊本地震以降に日本でもよく聞かれるようになった「スフィア基準」というものをご存知でしょうか。私のtheLetterの記事でも時折引用させていただいているものですが、スフィア基準とは

人道支援の質と説明責任の向上を目的
スフィア・ハンドブックより

として作られたもので

1.災害時や紛争の影響を受けた⼈びとには、尊厳ある⽣活を営む権利があり、従って⽀援を受ける権利がある。
2.災害や紛争の苦痛を軽減するために、実⾏可能なあらゆる⼿段が尽くされなくてはならない
スフィア・ハンドブックより

という2つの基本理念が掲げられた「人道憲章と人道支援における最低基準」が明記されたものとなります。これは「健康で文化的な最低限度の生活」とほぼ同義であると言ってもよいだろうと私は考えています。

災害は人権と尊厳の危機であり「被災者(地)」は人権が護られ、尊厳が回復できるためのあらゆる方策がなされる必要があります。以下に書きますが、時折「支援物資はもらえるだけありがたいと思え」や「そんなものより必要なものがある」といった声が支援(物資)を巡って散見されますが、そういうものではそもそもない(ストレスフルの中で、そう言いたくなるという心理状態は理解しますが)ことをそれらをもとに理解する必要があると思います。

なお、スフィア基準が作られた経緯は、1994年のルワンダ虐殺からはじまっているとされ、

民族対立から虐殺が起こり、200以上の支援団体が関わったが、キャンプで8万人以上死亡してしまった。暴力やハラスメントも起こっていた。その反省に基づいて政府・国連・赤十字・NGOが一堂に会して何が問題化の合同評価を行った
オンライセミナー 入門!スフィア スタンダード国際基準で考える必須な視点・態度・行動 上智大学グローバル・コンサーン研究所主催 2023.1.22

ことから生まれたものとされています。

災害等は常に変化(進化)するため、更新され続ける必要があるという意味においては絶対的基準ではないかもしれませんが、大変重要な指標と言うことができ、災害大国の災害支援において必須のものと言えるでしょう。こうした指針の元で、支援物資が「被災地」「被災者」に少しでも早く届くことが望まれます。

ちなみに、ニーズをもとに自治体から国へ要請がされて送られることになる(支援)物資搬送をプル型支援と言います。能登半島地震・津波ではプッシュ型支援もプル型支援も後手に回っている印象を受けるため、「被災者」の健康状態が大変心配です。迅速な対応がなされることを願うばかりです。

支援物資が送られる・届くまで

必要な支援物資は種類が多岐にわたることはもちろんですが、数量もかなりの数に上ります。水で言えば、平時に人はひとり一日200リットル以上を使うと言われているように、それだけでも相当の支援物資が必要だと想像ができるでしょう。その数・量を実際に送るとなると、相当な労力が必要となります。

西日本豪雨の際の支援物資の水

西日本豪雨の際の支援物資の水

まず、送られてきた支援物資が誰から送られてきたのかを確認する。ダンボールの中身がわからないものについては、ダンボールを開封して一つ一つ確認する必要があります。何が入っているかを確認し、その数を把握したら梱包し直す。もし様々な物資が混在していた場合には物資ごとに分けて梱包する必要もあります。そしてそれを種類や発送先ごとに仕分けて、トラックなどに積み込み(軽いものばかりではないので人手と体力が必要となります)発送をする。もろもろ確認しながらの作業であり、こうした作業を延々と繰り返すのです。

「支援物資」というと単にものを送るだけだと軽視されやすい(気づかれにくい)ように感じますが、こうした一連のプロセスがあって送られるものであることは十分に知られるといいなと自身の経験から思います。支援物資の発送にあたってはこれは「男がするもの」、これは「女がするもの」という性別役割分業が生まれてしまいやすいところもあるため、そのことも考えられねばならないことと感じています(当時は正直そういった発想すらなく、そこまで考えることができなかった自分を情けなく思う次第です)。

トラック等に積まれて「被災地」に送られる支援物資は、道路状況や被害の規模などによって届けられるところと届けるのが困難なところとが出てきてしまう現実があります。基本的には町の中心地とされる所や指定避難所などには物資が届けられやすい・集まりやすいとされますが、これは言い換えれば、人口の少ない過疎地や規模の小さな避難所、民間の避難所、そして在宅避難等をされている方のもとには支援物資が届きにくい、届かない恐れがあるということを意味していると言えるでしょう。

小さな避難所や民間の避難所などは行政が把握しておらず、行政による支援物資の仕分けのリストから漏れてしまっていたり、把握されても支援物資を届ける人手が現地にないという事態も考えられます。災害の被害が大きいところが優先されたり、残念ながら、平時から後回しにされがちな地域が災害においても後回しにされてしまうということもあり、支援物資がいつまでも届かない孤立する地域が出てきてしまうこともあります。

一方で、SNSやメディア報道で取り上げられたところには支援物資が集中し過ぎてしまうということも起こり、どこにどのくらい何が届けられるべきかというのはとても難しい問題です。

現在の能登半島地震・津波では、NPO法人リエラさんという団体がリアルタイムで支援物資の必要数がわかるようにしている情報を得ました。

災害弱者とされるマイノリティのための支援物資もそこにはきちんとあり、とても大切な動きであると感じます。こうした機能を避難所ごとに使っていくことができると有効なのかもしれないなと思いつつ、デジタルに弱い私はこの動きには尊敬しかないですし避難所ごとにやるにはどうしたらいいかはわからず…「思う」とだけ書かせてもらいます。

また、在宅避難者が支援物資を受け取るためには、可能な範囲で近くの避難所の名簿としてカウントしてもらうようにし、その数が確保されるようにすることが大切と考えられます。在宅避難者は支援物資をもらうことに肩身を狭い思いをすることがありますが、冒頭に書いた通り、健康で文化的な最低限度の生活を送る権利のある私達は、それが脅かされているときには支援を受ける権利があります。ただ、権利があると言っても、避難所には必要数しか届かない可能性があることから、物資の奪い合いのようなトラブルが発生しないためにも、数として把握してもらい(避難所運営者側に立つ人や支援者が把握しに行くことができればなおいいかと)受け取りに行く、あるいは届けてもらう仕組みができるといいと思われます。届けてもらう際には家を知られてしまうことによるリスクなどもあることから、第三者に立ち会ってもらうことなど、目と気を配った支援が求められるのだろうと思いますが、大混乱と疲弊の中でどこまでできるか、どのようにしたらそれができるか…を私達は災害大国として考えていく必要があるのだろうと思わされます。

支援物資を受け取る側の視点(を想像する)

これまではどちらかというと、支援物資を送る側の視点で書いてきましたが、支援物資は受け取る人たちのためのものであり、受け取る人たちがどのような状況に置かれているかが考えられなければならないのは当然のことです。

先程、支援物資が入ったダンボールの中身の確認が必要と書きましたが、これは受け取る側の人の安全を守り、困難な中にいるところにさらなる負担をかけないためであったりします。受け取る側の人たちが何の支援物資が入ったダンボールかを受け取る段階で(開ける必要なく)一目でわかるだけでも、ずいぶん届くまでのスピードが変わります。もしダンボールの中身がバラバラであったり個数が不明瞭であったりすると、受け取った側はダンボールを開けてそれを整理して数を数え梱包し直して運ばなければなりません。次から次へと支援物資が送られてくる中で、それらがいかに手間で心身ともに削られ、時間を取られる作業であるかは、ここまで読んでいただければ容易に想像できるのではないかと思います。

こうした負担については、中越地震の支援物資を巡る問題が書かれた『中越発 救援物資はもういらない!?新しい善意(マゴコロの届け方)』(以下、「著書」と記載)でそのリアリティがよくわかるため引用して見ていきたいと思います。長岡市の危機管理防災本部にいた林氏は著書の中で当時の経験をこう振り返ります。

災害発生から3週間で46500件、10tトラックで約450台分もの救援物資が寄せられ、物資の集積場はまさに戦場のようであった
次々に車庫が満杯になる(略)(そのために手配した)倉庫の家賃は、全て被災地の負担である
救援物資は、災害の応急対応など、本来すべきことがたくさんある職員の労力を奪ってしまう
著書内 「第2の災害」を振り返って 長岡市 危機管理防災本部 林 智和

また、台風23号を経験した兵庫県の豊岡市長も自身の経験を

救援物資の受け入れ場所には昼も夜も夜明け前も物資が到着し、担当者は睡眠不足と腰痛で消耗しきっていた
著書内 「救援物資はもういらない」というほど過激ではないが~2004年 台風23号・豊岡水害~ 兵庫県」豊岡市長 中貝宗治

と振り返っています。

このことは林氏も

物資は渋滞を避け、夜にやってくる
著書内 「第2の災害」を振り返って 長岡市 危機管理防災本部 林 智和

と書いており、待ったなしの中での物資は時間指定ではなく届くタイミングに届くのであって、どのタイミングで受け取れるかはわかりません。一時的に管理して一定の時間に配布するといった仕組みが今はできているかもしれませんが、ただでさえハイになっている中で、待たれる物資がいつ届くかと考えるだけで休まる暇もないような気もします。

ここで私の反省しないといけないことについて書きたいと思います(本来こうしたことは有料のみにする予定でしたがこの件は公開としたいと思います)。

活動記録①で私が東日本大震災の支援物資として洋服を寄付したことが書かれてあるのですが、ここで言う洋服とは「古着」であり、私は当時古着を送ってしまった経験があります。被災して何もなくなってしまった人にとっては服があるだけでも助かるのかもしれないと、考えてしまったのです。それで本当にいいのか?と手に取って迷ったのですが、問題なく着ることができるものであったため、迷いつつ、物資として送ってしまいました。偉そうに書いてきましたが、その際に送ったダンボールに何がいくつ入っているかなどの記載をちゃんとしていたかも(記憶がないですが)正直自信がなく、本当に反省しなければならない案件だと思っています。

著書ではそのことについても言及がされています。

無料のゆうパックで送られてきた染みのついた古着。被災地がごみ処理場になっていないだろうか
著書内 「第2の災害」を振り返って 長岡市 危機管理防災本部 林 智和
古着のように始末に困るものがあった(以下略)
著書内 「救援物資はもういらない」というほど過激ではないが~2004年 台風23号・豊岡水害~ 兵庫県」豊岡市長 中貝宗治
なんと古着が多かったことか(略)古着をもらってうれしいだろうか
著書内 課題だらけの救援物資~1995年阪神・淡路大震災~ 震災がつなぐ全国ネットワーク代表 栗田暢之 

繰り返しとなりますが、災害は人権と尊厳の危機であり、支援はその擁護と回復のために行われる必要があります。その大原則を十分理解していれば古着や不用品を送るという発送にはおそらくなりません。受け取る側としても、いらないものを送られたんだな、と思うものが目の前に並んでいたらどう思うか、その暴力性を考える力が私には足りていなかったと、自身の驕りを感じます。深く反省し、そういうことが繰り返されないようにできることをしていかなければと思うばかりです。

ここに書かれた「始末に困る」ということで言うと、支援物資の仕分け作業をしていると時折、手紙などが入っていることがあったりします。支援物資は送るだけだと軽視されやすいと先程書きましたが、そうではなく、発送作業者に向けても労いの言葉が書かれている手紙があったりして、とてもありがたく思うことがありました。しかし、支援物資を受け取る側に立つと、それは(私が感じたように)ありがたいと感じて、もしかしたら心のケアに近いような要素になりうる可能性がありつつ、そういった類のものだからこそ、受け取った後の「始末に困った」り、時に励ましが重すぎてつらくなったり、純粋に管理するスペースが難しかったりすることがあるというのも現実だろうと思います。

支援物資をあげる側はなんとかしてあげたい思いなど、善意の、温度の高い気持ちで送ることが多く、受け取る側は疲弊し不安の中で受け取ることになるという温度差もあるため、そもそも送られてきたものに対して断りにくいという構造も生じます。ほしくもないものを自分に嘘をついてもらう、何もできない人として受け取るしかできないといったことは、苦しさやうしろめたさが伴う経験でもあります。

こうしたこともあり、支援物資を受け取る側は「これは自分のサイズではない」や「自分の好みではない」などといったことを言いづらい、言うと「わがままだ」「我慢しろ」という声をかけられてしまうということも起こり得ます。もちろん、ある程度の我慢が必要となるのが現実なのかもしれませんが、本来は断ったり、自分の思いを主張したりすることは必要なことであり大切なことです。しかし、そう簡単ではないし、言ってしまったらもう支援物資が来なくなるかもしれないと思えば、受け取らざるを得ないわけであり、そう考えるとこれは支援する側が考えるべき問題だと思います。手紙などの是非について論じることは難しいですが、送る側が考えるべきことがあるという前提に立つべきなのだろうと私は思います。

「もういらない」を越え、配布の難しさを考える

支援物資を送る際には受け取る側の立場に立って様々な配慮が必要であることを書いてきました。こうした教訓をもとに、「もういらない」を越えるためにはどうしたらいいのでしょうか。

単純に「もういらない」の反対は「それがほしい・ほしかった」だとすると、ニーズに沿うもの、役に立つもの、痒いところに手が届くような支援(物資)がそれに該当するのだろうと思われます。たとえば、林氏は

積み下ろしのための人員をつけて送ってくださった団体があった。非常に助けられ、今後長岡市が恩返しをするときの教訓となった
著書内 「第2の災害」を振り返って 長岡市 危機管理防災本部 林 智和

と言っており、これまで繰り返し書いてきたように、仕分け等のマンパワーの必要性が想定されていることが大切であり、そのための人手も一緒に、ということは「もういらない」を越える可能性があるように思われます。想定されていることが大切だとすると、『災害と変化』でも書いたように「被災地」は変化のスピードが早く、刻々と状況が変わっていくという想定も必要でしょう。栗田氏は阪神淡路大震災の経験から

震災直後から「水を!薬を!毛布を!」とマスコミが被災地の惨状を伝えた。それに呼応するかのように多くのモノが送られたが、当然届くまでのタイムラグが生じる。つまり、必要なときに必要なものが届かなかったのである。
著書内 課題だらけの救援物資~1995年阪神・淡路大震災~ 震災がつなぐ全国ネットワーク代表 栗田暢之

と振り返っており、必要な時に必要なものが届くよう予想して支援物資が配送される必要性を解いています。何もかもが機能しない「被災地」では「今」ほしいものがたくさんあります。しかし、届く頃には次の「今」になっているかもしれない。したがって、災害が起こる前からあらゆる「今」を想定し、時間が経つごとに何が「今」必要とされているかを想定して発送することが重要なのだろうと思います。中貝氏は

刻々変化するニーズとずれて到着し、使い道のないものもたくさんあった
著書内 「救援物資はもういらない」というほど過激ではないが~2004年 台風23号・豊岡水害~ 兵庫県」豊岡市長 中貝宗治

と経験を振り返り、林氏は

引き取り手の無い物資は廃棄せざるを得ない。この費用も、被災地の負担である
著書内 「第2の災害」を振り返って 長岡市 危機管理防災本部 林 智和

と残酷な現実を記述しています。送られてきたものがいらないものとなってしまい、それを処分するのに「被災地」が費用を負担する(時間も人手もかかるでしょう)というのは、送った人を含めて誰のためにもならない構図でしょう。そうした支援が続けば「もういらない」と「被災者」が思うのも当然です。費用面においても「被災地」に負担を強いるようなことは絶対に避けなければならないと考えます。そのためには災害時要援護者の支援をしてきた黒田氏が言うように

支援物資を考える時の重要なことのひとつは、四季によっても物資の送り方の違いがあることを気にとめておくこと
著書内 災害時要援護者が人間らしく過ごすために必要なモノ 特定非営利活動法人 阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 理事長 黒田裕子

も重要だと思われます。季節によって求められるものは当然異なり、それに加えて「被災地」では変化のスピードが早いことを頭に入れた上で支援物資を送ること。そうすることで、支援物資が不要品とならずに届けられる可能性が高まります。

能登半島地震・津波の「被災地」では寒い時期(地域)で起こっている災害であり、自衛隊によるお風呂など、温まるものが大変力になっていることと想像がされます。次の季節ではどんなことがその地域では想定されるか、その頃の「被災地」はどういう状況になっていると想定されるか、今から考えておかなければなりません。仮設住宅への入居や長期避難など、様々に考えられ、それとともに求められること、できることは変わってくるのだろうと思います。

また、支援物資において今回徳島県から支援物資としてストッキングが送られたことが話題となりました。それに対して「必要なものは他にもある」と言った声があると言いますが、

ずっと座ったままだと、重力で血液が下に溜まって、足がむくんできます。膝から下を(弾性ストッキングで)圧をかけることによって血行を良くすると、血管に血栓が詰まるのを防ぐという効果があります。エコノミークラス症候群の防止には、まずは弾性ストッキングを履いて血液の流れを良くするという目的で(弾性ストッキングが)使われます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/82e7c59ba095fd13ef3928bed53c87a20aa609f7?page=1

と徳島県はしており、大変素晴らしいなと個人的には思いました。「被災地」は危険区域が多くでき、生活圏域が狭まります。運動の時間等を設けても、座っていることは多くなっている人がいるだろうと想像がされます。こうした現地の人たちの生活状況を想定した支援は、まさにかゆいところに手が届くものであり、「あなたたちの状況を案じていて、健康でいてもらいたい」という「思い」までもが伝わるのではないかと私は思います。

この件で重要なのは「必要なものは他にもある」という声は誰の声なのか、というところだと私は考えます。犯人探しという意味ではなくて、そのように言えるのは誰なのか、ということです。私はそれは「言語化する力のある人」が言えることなのではないだろうかと考えます。黒田氏はこう言います。

自らが言語化し、自分を守れる人は良いが、欲するものを手にすることもできず、言語化しようと思っても言葉にならないそんな人々に対し、人としての「くらし」ができるような支援物資のあり方、即ち、その人のニーズにあった物の支援が、生活を側面から支えることになる。
著書内 災害時要援護者が人間らしく過ごすために必要なモノ 特定非営利活動法人 阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 理事長 黒田裕子

災害時には声の大きい人の声が大きくなる、あるいは、聞こえない声がより聞こえにくくなる、ということが起こります。聞こえない声というのは存在し「ない」ものなのではなく「ある」のだけど「聞かれない」だけの可能性があるのです。私は災害時には(平時においてもですが)このことが常に考えられなければならないと思っています。一人ひとりに見えている風景は異なり、立場・属性によってもそれらは異なるのですが、災害時にもそれはそうで、黒田氏が興味深い例を挙げているため、そのまま引用したいと思います。

「自然災害=お水」と決まりごとのように水が届くが、「お茶の参加」も大切(略)お茶は口腔内の雑菌を除去し快適性を維持する。高齢者にとっては、お茶は心の癒やしにもなると同時に、食欲も増す
食事をしたくてもうまくできないというような人が、被災地の中には多くいるが、しかし、お弁当に付いてくるのは当たり前のようにお箸しかない(略)スプーン・フォークがあれば、その人にあった工夫ができ、食欲も出て、健康状態も維持できる
避難所の生活の場には、食事を運ぶお盆が全くない
笛・懐中電灯が必要(視覚障害者)
下痢をした時の下着の着替え(高齢者など)
著書内 災害時要援護者が人間らしく過ごすために必要なモノ 特定非営利活動法人 阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 理事長 黒田裕子 ()は大塚記載

これらは災害弱者の立場に立った時にはじめて見えてくる(可能性のある)ものであり、私はマジョリティ男性であるがために、正直これらの視点に気づくことはできませんでした。でも、確実に必要としている人がいるのです。自分(の属性や立場から)には見えないことがあるという前提で、支援物資なども考えられなければならないと改めて思わされます。

最後に、支援物資をどう配布するかという問題があるため、そのことについて考えてみたいと思います。私はこの経験はないため、あくまで考えだけを述べたいと思います。

よく支援物資は「平等」に配布すべきと言われます。行政の支援は「平等」でなければならないですし、それはその通りですが、「平等」と考えすぎると「必要」が満たされているか、という視点が欠ける可能性があるように思います。林氏は

本当に必要な方に配布できただろうか。そもそも避難所に来ることはできたのだろうか
著書内 「第2の災害」を振り返って 長岡市 危機管理防災本部 林 智和

と当時の経験を振り返っており、『災害と避難(所)』でも書いたように、在宅避難者を含めて、みんなが支援を受け取れたかどうかを自身に問うています。完璧な支援はないため、こうした問いや反省自体はどんなにがんばっても常に生まれるものだとは思いますが、だからといって当時の担当者だけの問題とせずに、社会としてこのことは考えられるべきだと私は思います。私としては、平時の「平等」の概念が重要になる問題だと思っており、齋藤氏は平等について不平等のデメリットを説明しつつ

世の中には、「あったほうがよい不平等」があります
『平等ってなんだろう?あなたと考えたい身近な社会の不平等』 齋藤純一

と言っています。この件の詳細は省きますが(大変良書なので書籍をお読みいただければと思います)私は災害時の支援物資などはまさにそれにあたるものだと考えており、これは言い換えると「公平」という意味だと理解しています。必要としている人にまずは届けて、そこから「平等」にみんなに届くように、ということが災害時には必要のように私は考えており、これはコロナ禍でも議論された案件のように思います。中貝氏は

特定の被災者が何度も物資を取りにくる反面、物資が手元に届かない被災者が不公平感を募らせたりした。
著書内 「救援物資はもういらない」というほど過激ではないが~2004年 台風23号・豊岡水害~ 兵庫県」豊岡市長 中貝宗治

という経験を語っていますが、明らかに困難にある人への支援は当たり前に届けられつつ、その上で、全体に平等にとすることで、不要な不公平感をなくすことが少しはできるのではないだろうかと私は考えます。とはいえ、災害時は誰が被災者かという問題がついて回るため、「全体」の定義なども難しく、どのような手段を取るのが最善か、考え続けなければならないのだろうと私としては思います。ただ、支援物資を受け取る必要があるのに受け取れないといった人がいることは災害時には確実にあり、そういう人からはじめられる必要があるだろうと私は思います(現場では理想論かもしれませんが)。

支援物資が実際に届けられるためには、人手はもちろんですが情報が正確に届くことが重要です。「被災地」が狭いコミュティで成り立っている場合には、ほぼみんな知り合いということもあり、知り合いから知り合いへという形で情報と支援物資が行き届くということもあるでしょう。電気や電波が入らないことなども想定して、手書きで簡易的な新聞を配布したり音声で届けたりといった様々な媒体を使って状況把握がされていく必要もあると思います。それによってどこに何が必要かなどが可視化され、届いていない人の元に支援物資を届けることができる確率が増すのではないかと考えます。

ちなみに、東日本大震災では、漁師の人たちがそれぞれの冷凍庫に保管していた魚や毛布などを分け合って、わいわいと暮らしていたといった話をいくつか私自身聞いてきました(とはいえ、そこにも性別役割分業が見られたりもしましたが)。それは災害時に強い地域であり、正直もらえるものはもらっておいて、なんとかみんなで過ごすしかない、というのが現実なのだろうと想像します。ただ、それゆえに見えない排除が生まれている可能性もあれば、あるいは、かえって〇〇さんはもらった・もらっていないといった論争のようなものが生じやすかったりすることもあるかもしれないと感じることは書いておきたいと思います。地域の力を活かすのは大前提としてありつつ、可能な範囲で可視化すること(それによって水臭いとなることもありそうですが…)や、マイノリティ・災害弱者が必要とする物資を意図的に確保・配布される(する人がそういう属性であることが望ましい)仕組みを作ることが必要なように私は思います。

その点で都市部、特に都内で災害が起きたときのことは正直私には想像が及ばず、、平時から地縁をゆるやかに作っておくこと、かつ、災害時にシステマチックに動く訓練がされておくことは重要であろうくらいしか言えません。おそらく都外へ避難する人が大勢生まれ、避難できない人との差が生じ、避難者の管理(支援の行き届かなさなど)に追われながら、起こってはいけない人災が起こってしまうように(今の日本社会を見ていると)正直思います。「もういらない」ではなくて「足りない」であったり「もういられない」であったりする予感しかしないです。その対策のためには防災に予算をもっと割き、人命・人権・尊厳を優先する政治にしていかないといけないのだと思います。

少しズレてしまいましたが、配布にあたっては必要とする人のところに、必要な数を記録や管理を可能な範囲でしつつ、公平に、そして平等に配布されることが必要なのだろうと私は考えます。国や行政はそうした訓練を重ねつつ、それが発揮できるコミュニティや風土・文化を住民は平時から醸成する必要があるのではないだろうかと考えます。外の地域等とのつながりを平時から作っておく(協定を結ぶなどもそのひとつでしょう)ことで、支援物資を送る・届ける・配布することがスムーズになるとも考えられるため、そうしたつながりを地域が作っておくことも必要だろうと考えます。

以上が、『災害と支援物資』のテーマ記事となります。

支援物資については文字にすることは簡単でも、実際の作業や配布は大変困難なものだろうと(ほんの少し関わったことのある身として)想像しています。私は送る側しか経験をしていないため、ずいぶんと現場感からずれたことを書いてしまったかもしれません。その点については申し訳なく思います。

能登半島地震・津波においては、孤立している集落などがすでにあることも耳にし、胸を痛めつつ、政府に動くよう声を上げるしかできない日々です。必要な支援物資がみなさんのもとに公平に届き、一日でも早く落ち着く日が訪れるよう、心から祈ります。

お読みいただきありがとうございます。

無料で「境界線に立つ立場から~災害支援・復興に関する反省的記録」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
災害と外国人
誰でも
災害往復鳩:災害時に起こること『「ガレキ」という言葉』から、平時の社会の課題を考える
誰でも
災害伝書鳩:「ガレキ」という言葉
読者限定
災害と写真
誰でも
災害ボランティアの心構え(パートⅡ)
サポートメンバー限定
「被災地」での災害ボランティア活動記録⑬ー三回目の宮城県石巻市訪問五日...
サポートメンバー限定
「被災地」での災害ボランティア活動記録⑫ー三回目の宮城県石巻市訪問四日...
誰でも
「被災地」での災害ボランティア活動記録⑪ー三回目の宮城県石巻市訪問三日...