災害と避難(所)
ここでは『災害と避難(所)』をテーマに、避難の困難さ・避難先(所)・避難先(所)で考える必要があることについて、自身の経験を中心にまとめました。
能登半島の地震・津波による被害のニュースを見ているうちに、避難所の光景を何度か目にしました。そこには体育館に雑魚寝状態の人々の姿が映っており、東日本大震災、なんなら阪神淡路大震災から何も変わっていないのではないか…と思えてしまい、大きなショックと怒りを覚えている私がいます。
今、現地では様々な方が様々に避難をしている状況と思われ、不安に押しつぶされそうな人もいれば、ショックから何も考えられない人、必死に状況に対応・改善しようとしている人がいることなどが想像されます。困難な状況に胸を痛めますが(あまりにちいさくも)災害支援に携わってきたひとりとしては反省の気持ちが湧いてきます。
その反省を元に、もともと避難(所)についての記事を書く予定でいたこともあったので、避難(所)についてテーマ記事を(少し駆け足で)書かせていただこうと思います。
※theLetterの記事は私の経験(「被災地・被災者」から学んだこと)であり、ほぼ主観となりますので、あくまでひとつの参考程度としていただければ幸いです。
避難の困難さ
私達は災害をはじめ命の危機を感じたら(あるいは予測したら)通常は安全な場に避難をします。大雨や台風などが来る場合には「早めの避難を」とよく呼びかけられ、身の安全を守ることは当然のこととして語られます。
もちろん命を守るために避難は重要であり、勧められるべきことなのは間違いありませんが、実際のところ避難はそう簡単ではありません。
その理由として最近よく聞かれるようになったのが「正常性バイアス」という概念かと思いますが、お聞きしたことがあるでしょうか。
「正常性バイアス」とは、簡単に言うと何か特別なことが起こっても「正常の範囲内」であると思い「自分は大丈夫」と認識する心理が働くことを言います。災害が起こっても、あるいは起ころうとしていても「自分は大丈夫」と思い込んで、日常と同じ行動を取る、つまり避難などの選択肢を選ばないということが起こるとされています。
これは私達自身、振り返ってみれば確かにあるものだと実感ができるかと思いますし、大切な概念であるかとは思います。しかし私は、これは避難しなかった人の避難しないという選択をある意味で自業自得・自己責任として終えてしまう危険性があるように感じ、あまり好みません。
そもそも「正常性バイアス」という概念を使わなくても、たとえば、災害が起こって部屋の荷物が倒れていたら、私達は当たり前にそれを直したり片付けたりしようと思うでしょうし、家がぐちゃぐちゃの状態になったまま(もしかしたら鍵もかけられないかもしれないまま)避難する=家を空けるということがハードルが高いものであることは容易に想像できるように思います。ペットがいる家庭ではペットを置いていくことはできないと考えて家に残る選択をする可能性もありますし、幼い子がいる家庭では家以外の環境にこどもを連れて行くことをためらう可能性も考えられます。
こうした人々の様々な営みや考えを「正常性バイアス」として片付けてしまうことは個人的にとても違和感であり、もっと多様な言葉で避難しない心理やメカニズム、その困難さが語られてほしいと個人的には思います。
避難の困難さは災害の規模によっても異なり、たとえば道路が寸断されていたり家が倒壊していたりするほどであれば、外に出ること、外を歩くことそのものに恐怖を抱くということもあります(車避難が推奨されないのはこのあたりにあると考えられます)。夜の時間帯に災害が起こり、電気が止まってしまった場合には、暗くて移動がそもそも困難ということもあるでしょう。
他にも、距離的に避難する場所までが遠くて断念することもあれば、寒い時期の災害で寒さゆえに外に出ることを億劫に感じてしまうこともあります。災害時にそんなことで避難をしないなんて…などと思う人もいるかもしれませんが、決してそんなことはないですし、備えていたものを持って遠くまで歩くのは体力も気力も必要であり、道路が凍結していたり冷たい雨や雪が降っていたりすれば転倒の恐れもあって避難を断念することというのは十分考えられます。
より大きな災害においては、もしかしたら住み慣れた地域から離れないといけないという避難の形も考えられるでしょう。それは誰もが強いストレスや恐怖を感じるものであり、「離れたくない」と思うことは自然なことと思います。福島第一原発事故による避難は強制的だったわけですが、この土地に残りたいという人がどれだけいただろうか…と思うとその痛みは想像することすらできません。本来、人には「住み続ける権利」があり(「避難する権利」もありますが)強制的に避難させられた人はその権利が侵害されたと言え、その回復が望まれることだと私は考えます。
その他にも、マイノリティの立場にいる人は平時から感じる生きづらさが、災害や避難にあたってより大きな壁となって直面するでしょうし、いわゆる健常者でもその日にもし体調を崩していたりケガをしていたりしたら、それだけで避難が難しいものになることも十分想像ができるでしょう。人生に絶望していたり、暴力・抑圧被害によって無力感に苛まれていたりする人は今さら生き延びようと思わず、そもそも避難という選択肢を挙げられない、自分は逃げていい立場ではないと思い込むということもあるかもしれません。
このように、避難の困難さは様々に考えられ、他にも挙げられると思われますが、これだけでも避難はそもそも簡単なことではないとわかるかと思います。その上で、人が避難しやすくなるためには、安心して避難できるためには何が必要なのか、どのような社会である必要があるのかが考えられるべきと私は考えます。
避難先について
避難が困難なものであるとした上で、それでも人は身を守るために避難を選択するとして、避難先にはどのような選択肢があるでしょうか。
結論から言えば、文字通り「避難所」がその先にあたるわけですが、避難所にもいくつかの種類があるとされています。
ひとつが「指定緊急避難場所」と言われるもので、主に学校のグラウンドなど、安全で広い空間がそれに当たることが多くあります。海沿いの町では津波災害が想定されるため、海から高く離れることが重要であることから津波避難ビルがあったり、山の方に逃げるルートが作られたりしており、その先が「指定緊急避難場所」とされていることがあります。そこはあくまで「緊急」の避難先であるため、避難した先に十分な備蓄があるわけではないことが多く、長い滞在は難しいと考えられます。
一方で、長期滞在の避難先のことは「指定避難所」と言われ、これは学校の体育館や公民館等など、多くの人が「避難所」といって思い浮かべる場所と言うことができるでしょう。ここには必要な期間滞在することができ、備蓄品などもある程度の種類と数が備えられていると考えられます(お住まいの地域の指定避難所がそうなっているかチェックをすることを推奨します)。
これらはどちらも自治体が管轄となっており、公共の場(施設)が該当すると言えますが、そもそも現状の体育館などを「指定避難先」としていていいのだろうか…と私は考えてしまいます(それは以下で)。なおこのような公設の避難所は人口の20%ほどの想定と言われています。
その他、公的な場ではなく民間の施設が避難所として開設する(旅館やお寺など)こともあれば、知人宅へ避難するという選択をする人もいたり、車の中を避難先(=車中避難)とする人もいたりします。車中泊については、熊本地震の際に現地で私自身、目の当たりにしてきました。また、「広域避難」といって県外をはじめ遠方へ避難するという選択肢もあります。東日本大震災の被災地域では災害公営住宅(いずれ書くことになります)の空き部屋が目立ちますし、いわゆる地方には多くの空き家があることを思うと、今回の「被災者」にはそうした選択肢を一時的にでも自治体や国が提供することが急務だと思われます。
もうひとつ、重要な避難先として挙げられるのが、特別なニーズのある「要配慮者」とされる人たち(要介護の高齢者、医療的ケア児などの医療が必要な方、障がいをもっている方や乳幼児・妊産婦など)のための「福祉避難所」です。社会福祉施設が「福祉避難所」として指定されていることが多いと考えられますが、私個人としては通常の避難所そのものが福祉避難所と呼ばれるくらいの機能・備えがされているべきだと思ったりします。というのは、避難所には多様な人が避難してくることと、災害は人権が脅かされる出来事であることから、避難先であっても誰もが人間らしい暮らしをできるようにと対策されていることが望ましいと考えるからです。
普段は要配慮者に当たらないが、足腰がやや弱っている人もいれば、集団生活が得意ではないが普段はなんとか我慢していて要配慮者に該当しないと認識している人もいて、上記したような、ペットや幼い子がいる場合に避難所に行くと迷惑をかけると考えて行き場を失うという人もいるなどなど、地域には様々な状態・状況の人がいることを前提とする必要があり、端的に言えばインクルーシブな避難所が求められると考えます。現状、そうした方々は在宅に残る「在宅避難」や「車中泊」を選ぶことも多いように想像がされー特に在宅避難=大丈夫な人と思われがちなので、そうではなく在宅に積極的に避難しているのか、在宅に避難せざるを得ないのかと考えることは重要ーそうした方々が孤立してしまうということはよく耳にします。私は熊本地震で車中泊をする理由として余震が続くことによる恐怖もあれば、子どもが泣くからという理由を述べる人の話を耳にしてきました。平時から肩身が狭く、追いやられてしまいがちな人・なんらかの被害に遭いやすい人がより追いやられ、危険な目に遭わないための避難所のあり方が真剣に議論され、備えられないといけないと改めて感じています。
こうした話をすると、よくイタリアの避難所が比較されますが、私はその現場を見たことがないので詳しく書かれている記事を貼っておきたいと思います。
https://www.risktaisaku.com/articles/-/6286
このようにできることはとても望ましいですし、大いに参考にするべきだと考えますが、日本にも平時からある施設(避難所として想定される施設)をより充実したものに改良することはできるはずであり、それができないのは国や自治体が放置してきたからと言わざるを得ず、そのことについて我々は考えないといけないだろうと思います。
新型コロナウイルスのパンデミックのときにはホテルなどを避難所として開放してきたという実績はあるわけで(私自身ホテルに避難させてもらいました)これをより進め(勧め)ていく(限界はあると思いますが)ことがまずはできるのではないかとも考えます。
一方で、避難所をよりよいものとする話を出した時にたまに聞くのが「避難所が快適だとなかなか出ていかなくなってしまう」というものであったりするため、意識そのものを変えないといけないということも言えそうだと考えます。これについてはハッキリ言ってそのレベルの避難所を作ってから言えという話であり、仮になかなか出ていかない人がいたとしたら、その人は平時の生活でなんらかの不便さ等を抱えていたり、出ていく先についてなんらかの不安等を抱えていたりすることが考えられるので、適切なサポートを検討していくということが筋だと私は考えます。
今避難されている方々にとって、この話はとても暴力的な内容となってしまっている可能性を思うと申し訳なく思いますが、何があっても人が安心して生きていける環境を考えて備えておくのが災害大国として優先的に考えられるべきだという考えのもとで書いておきました。
避難(所)で考える必要があること
日本の避難所の不十分さについて書いてきましたが、避難生活・避難所での暮らしというのは、人によっては命に関わるものであるということがもっと共有されなければならない強く思います。いわゆる「関連死」の問題を真剣に考える必要がある、と言い換えることもできるかもしれません。
東日本大震災の主に福島原発避難者の関連死について扱われた『東北ココから 震災関連死 命はどうすれば守れたか』という番組では、震災関連死で亡くなった人の内、60代以上が90%を占め、7割が持病があったと言います。死因は肺炎と心疾患が多く、心疾患においては寒さによる血圧の変動に加え、不安や精神的ショック・恐怖が血圧を上昇させたと指摘されていました。肺炎においては栄養の問題もあれば、生活の不活発化(=生活不活発病)が指摘されており、心疾患が3月に多かったのに比べ、肺炎は4月以降、すなわち震災から一月が経ってから継続的にずっと多いという傾向があったことが明らかにされています。
同じ災害は二度と起きないと言われるように(社会のあり方によって災害は変わる)災害は進化していくものであるため、避難(所)の対策に完璧はなく、常に環境改善が求められるものであると考えられますが、関連死の問題を中心において考えられることは今後も変わらないのではないかと思います。
関連死を防ぐために、すなわち人が健康に生きていくために必要なことというのは様々に挙げられると思いますが、パッと思いつくのは水分・食事・衛生・睡眠・心や身体(運動)・人とのつながりあたりでしょうか。
ひとつずつ見ていくと、「被災地」ではインフラが止まっていることから、水が停止してしまうことがあるため、水の十分な備蓄・支援は絶対に必要なことだと考えられます。夏の暑い時期などには熱中症・脱水症状の恐れがあるため、純粋な水だけでは「水分」という意味では足りない可能性もあります。十分な水分補給ができるような対策は生存のために絶対的に必要と言えるでしょう。
「食事」については、避難所での食事は偏った栄養バランスのものが提供されやすくなってしまうことはこれまでずっと指摘されているかと思います。今はさすがにないと思いますが(そう信じますが)避難所での一か月はパンとおにぎりのみだったといった話を聞いたことがあるほどです。備蓄品も乾パンなどのイメージが未だに根付いていることも問題かもしれません。栄養バランスが崩れることによる健康の悪化は書くまでもありませんが(栄養の専門家ではないので書けないとも言えますが)問題は必要なものや食べたいものをオーダーした時に、それを「贅沢だ」などとする声だと考えます。「避難所から出ていかなくなる」という話と同様に、人々の意識を変えなければならないと感じます。食事についてはアレルギーの問題もありますし、宗教の問題で食べられないものがある人のことなどもあります。理想論だと現場からは言われそうですが、「食事」を「我慢」という視点で考えない避難生活を誰もが送れるといいなと思うばかりです。
「食事」に付随して重要と考えられるのが「衛生」の問題です。人は生きている限り、ゴミを出しますし、水が不十分の可能性がある中で感染症などからどう身を防ぐかは健康に大きく影響することだと考えます。私は熊本地震の際に避難所の支援に関わりましたが、避難所を泥の付いた土足で歩く光景を目の当たりにして驚愕したことがありました。災害時の泥は様々な汚物が混じっているため、土足とそうでない部分は平時以上にきちんと分けられないといけません。そうしたことが後回しにされてしまうことは大変危険だと実感してきました。
そして、「衛生」において最も重要なのが排泄の問題・トイレの問題だと言えるでしょう。言い方はよくないですが、「食事」は数日摂らなくても生きていくことはできます。しかし、排泄は待ったなしだと言えます。

避難所となった学校と仮設トイレ
『災害とトイレ 緊急事態に備えた対応』では、
人間が生活する以上、排泄物とごみが発生する。排泄できる環境を整えてその処理を適正に行わなければ、生活環境はたちまち劣悪化し、健康の悪化に直結する
とあります。
阪神淡路大震災では、トイレに段差があるなどしていて
「トイレの利用を控える」人が多く、そのために水や食べ物をできるだけとらないという人も少なからずいた。車いすで使えるトイレや介助できるようなトイレもほとんどなかったので、高齢者のみならず体の不自由な人にとっては、トイレは避難生活の最大の問題で、生死を分ける問題だったといっても過言ではない
とされています。
また、東日本大震災において文部科学省の調査によると
「避難所で問題となった施設・設備」において「トイレ」が第1位(74.7%)となっている
と言います。
それでも、2019年文科省の避難所となる公立学校の防災機能に関する調査では
指定避難所のトイレは「断水時のトイレ対策をしているのは58.3%で、マンホールトイレを整備している学校は14.8%、断水時にプールの水や雨水を洗浄水として使用できるトイレを保有しているのは2.3%、携帯トイレや簡易トイレの備蓄が41.3%となっている。多機能トイレの設置率は全体で65.2%(略)全国小中学校トイレの様式化率は57%(文科省2020年の公立学校のトイレ状況調査)
防災公園や学校など避難拠点となる場所にマンホールトイレを、整備しているところは36%で、整備予定を含めて約44%(日本トイレ協会「2019年度自治体のトイレ関連行政についての調査報告書」)
と言われており、備えが不十分であることがわかります。今回の能登での地震・津波においてもトイレの問題で多くの人が困っていると思うと、非常に歯がゆく思います。
一刻も早い支援が必要ですが、
国土交通省の資料によると、仮設トイレが発災から各地の避難所へ届くまでに早くても3日以上、ほとんどの場合4日以上掛かるケースが多いと言われている
とあるように、なかなかシビアな現実があると指摘がされています。
その理由として道路の寸断やガソリン等の不足があり、仮設トイレは国とレンタル会社とのレンタル契約で大規模災害となると遠方からの輸送となるということがあると(『災害とトイレ 緊急事態に備えた対応』より)言います。今回の地震・津波においては道路の寸断が著しく見られることもあり、かつ、今のこの政府がどこまで災害対応を優先できているかは甚だ疑問であり、対策は平時から考えられないといけないように思います。簡易トイレの十分な備蓄と平時から災害時に利用できるマンホールトイレの検討などが必要なのかもしれないと私は考えます。
「睡眠」においては、上記のそもそも指定避難所が体育館でいいのかというところとつながりますが、体育館は冬の時期の底冷えがひどく、夏は熱がこもるのは誰もが理解していると思います。そこが人の生活する場として適切かどうか考えなければならないと思います。段ボールベッドで底から離すというのはもちろん必要なことだと思いますが、現在の体育館のままと避難生活を送ること自体、疑わないといけないと考えます。冷暖房を備え付けたり、床自体をマットレスのような素材にするなど、考えるべきことやできることはいくらでもあるように思います。プライバシーの確保が適切にされることも「睡眠」(に限らず)がしやすい環境として必要であり、現状では個室テントを十分に設けることが進められることが求められているのだろうと考えます。
「心」については「人とのつながり」と(ここでは)同意として、人と安心して会話ができたり、笑うことができたり、遊ぶことができたりすることが重要だと考えます。『災害と自粛』で(確か)書いたように、災害後は感情の表出やコミュニケーションが困難となりますが、少しでも不安から解放される時間を持つことは大切なことです。情報がきちんと行き届くことで不安が減るということもあるため、災害時の情報伝達(ピクトグラムの用意など)は「心」の視点からも備えられていることが(余計なストレスの回避につながり)健康につながりうるだろうと思います。
その点では「体」も同じであり、良好な「人とのつながり」をもとに、生活のリズムを整え、趣味や運動する時間・機会を設けることが大事だと考えられます(「睡眠」の質にもつながるでしょう)。「体」については、関連死の話で「生活不活発病」について書きました。これは「体は動かさないと急速に衰えていく」ということであり、避難所などの生活で体を動かさなくなることが健康に負の影響を及ぼすことが指摘されています。平時の自宅であれば、何気なく洗濯物を干したり、庭の様子を見たりといった体の動きがあるものですが、避難所での生活では被災のショックで動く気力がなくなったり、生活圏が狭まることで体を動かす機会が減ったりするということがあります。車中避難においては特に気をつける必要があり、『災害とトイレ 緊急事態に備えた対応』では
「車中避難」は(略)避難所に避難することをためらう⇛車中に避難する(窮屈な姿勢を長時間強いられ、体内の血行が悪くなる)⇛トイレが不足または清潔ではないので、トイレを控えるために食べ物飲み物を控える(血中濃度が高まり血の固まり(血栓)ができやすくなる)⇛血の固まり(血栓)が血管内を流れ、肺に詰まり肺塞栓などを誘発する(これがいわゆる「エコノミークラス症候群」)、という悪循環を多数発生させた。
と報告がされています。無理のない範囲で体を動かす機会を意図的に作り出し、食事を食べるスペースや交流するスペースなどを設けて「人とのつながり」を得る機会などが作られることが望ましいだろうと考えます。
その他(上記と密接につながっていますが)被災によるショックや不安、避難所生活でのストレスによって、避難所内の治安が悪化することも考えられるため、治安対策も重要となるでしょう。ストレスの矛先はたいてい弱い立場に向かうため(ヘイトが強化されたり表面化したりもします)マイノリティを中心に人権が擁護されるための見守りやストレス発散の機会が必要になるでしょう(平時からそうですが)。私が東日本大震災の避難所で見たのは子ども同士が遊びのスペースでものの取り合いのようなちょっとしたいざこざの光景でした。これは平時でも起こるものではありますが、様々な人がストレスフルになっているため、ちょっとしたことがトラブルにつながりやすいということはあるのだろうと感じています。
治安でいうと、女性や子どもへの性暴力やDVの悪化なども気をつけなければなりません(もちろん男性が被害者になるケースもあり見落とされてはいけないと思いますが)。女性や子どもへの暴力は暴力として認知されない可能性すらあり、「そのくらい」と軽んじられたり、「これ以上問題を持ってくるな」と拒否されたりし、何よりそもそも声を上げづらいものでもあります。災害後はこうしたことが起こらないように加害を許さないというメッセージを発信し続け、体制が取られる必要があります。また、混乱状態に乗じて、DV加害者やストーカーなどが近寄ってくるということもありえるため、DV等支援措置は優先度を高め、居所が被害者に届かないような対応が避難所運営者に求められると考えられます。
こうした暴力を防ぐこともそうですし、「心」「体」「人とのつながり」ともリンクしてくるものですが、避難所生活ではそれぞれに役割があることが望ましいとも考えられます。被災した後、人は無力感に打ちのめされる(『災害後の反応』もよろしければ)ことがあり、かつ、「被災者」は支援を受けるだけの人とされがちとなります。自身のパフォーマンスを発揮する機会が物理的だけでなく、「かわいそうな人」と扱われることで制限されてしまうということもあり得るでしょう。そこに役割があると、人は自身の力を確かめられ、支援を受けるだけの存在ではないと実感でき(取り戻せ)、パフォーマンスを発揮する機会が確保されやすいのではないかと思われます。一人ひとりが持っている力を発揮できることは、人々の「心」の健康はもちろん、生活不活発病の予防になる意味でも健康に役立つと言えるでしょう。
「役割」について考える上で重要なのは「意思決定の場」に多様な存在が配置されることです。多様な存在で意思決定をする・話し合う(そういう役割に位置づける)ということが重要となります。避難所には様々な人が避難してくると書きましたが、様々な人が避難してくる以上、そのことを前提に置いた運営(備え)がされるべきだと考えられます。当事者の専門家はその当事者であり、多様な存在が意思決定の場にいることは多様な人達の暮らしが担保されやすくなると言えるでしょう。子どもも意見を表す権利があるため、子どもにも積極的に関与してもらえることが大事だと思います。
※今回(も、だと思われますが…)外国人の受け入れを断ったという信じがたくショッキングなニュースが流れてきました。。そのようなことがないような地域社会が必要だと改めて思います。
意思決定の場などには可能な範囲で外部からの支援者も入れるとよいでしょう。避難所はともすると近い関係の集団となり、「うちの避難所はみんな助け合うからプライバシーなんていらない」などと言う声が通ってしまうリスクがあるためです。第三者が入ることで、そうした声に待ったをかけ、権利を守れるように調整することが求められるでしょう。 ただし、第三者は避難所の人たちの迷惑に極力ならないよう気をつける必要があります。これもまた書くことになりますが、避難所をテリトリーとして奪い合いのように(無意識でも)してしまう人たちもいれば、そうしたことから避難所の運営のできていない点ばかりが目に付き、無遠慮に指摘してしまうということも残念ながらあります。それによって、避難所の管理者や地元の人達とうまくやりとりができなくなってしまうこともあります。このことは長い支援が必要な中で、地域の援助希求能力を阻害してしまうことにもつながり(ボランティアを受け入れないとした避難所などもあると聞きます)気をつけるべきことと言えるでしょう。また、第三者は「支援したい」という思いを強く持って現地に入ってくることもあり、過度に動いてしまうこともあります。これは本人が自覚して自省すべきですが、組織がつながりながら防ぐべきことでもあると私は考えます。熊本地震の際、様々な支援者が被災した人に声かけをしたために、聞かれ続けて疲れてしまったという「被災者」がいたことが私の記憶には新しいです。地元の人を中心に置いて、よき連携を取っていくことでこうしたことは防げるのではないかと考えます(そのように案を出させてもらいましたが、うまく機能させることは難しいと実感してきました)。
そして、活動記録④で書くことができなかったのですが(ここで書くために省いたのですが)実はその時に私と一緒にボランティアをしていた人が支援物資を避難所に届けたいと言うことがありました。迷惑になるリスクの方が高いと思いつつ、宿舎近くの避難所に相談してみようとなって訪問してみたことがあったのですが、案の定迷惑となってしまった経験が私にはあり、反省しています。その時のことをこんな情けない(反省のない)メモとして残していることもわかりました。
避難所に物資を届けに行ったが、この頃はまだ単独では困るようだ。そのため自衛隊のところに行き、物資の振り分けをお願いした
支援物資については次の記事で書く予定なので省きますが、「まだ」とかそういう問題ではないということをきちんと反省しないといけないと思っています。支援物資が届いてからしなければいけないことはたくさんあり、避難所のスペースも限られていることなども考えられなければなりません。支援側は受け入れ側に極力迷惑をかけないようーとはいえ人間関係でもあるのですれ違いなどは起こるものですがー注意を払う必要があるだろうと思います。
長々と書いてきましたが、他にも避難所で考えられるべきことは様々にあり、書き切ることができないため、このあたりでこの記事を終えたいと思います。
今、「被災地」にいるみなさんは寒い冬を(明日は雪の予定とも聞きとても胸が痛みます…)過ごしていることと思います。東日本大震災では温かいものはもちろん、地域の馴染みのある食べ物が届いたことでホッと緊張が解けたという声を聞いてきました。そうしたことが行き渡っているとといいなと願うばかりです。
また、避難所は地域・社会の縮図などとよく言われ、避難所の様子・運営を見ればその地域がどういう地域かわかると言います。性別役割分業が根強い地域は、女性だから炊き出しをするということをはじめ、軽視や蔑視・差別がそのまま、あるいはそれ以上に起こってしまうことが懸念されます。そこに第三者が入ることで、権利が守られる安全な運営ができていることを願います。これらについては本来私達は平時に話されなければならないことであり、政治について考えなければならないということでもあります。直接的な「被災地支援」ではありませんが、一人でも尊厳と権利が守られるために、公正な社会のためにできることであり、それが防災であると私は考え、反省しながら発信していければと思います。
以上が、『災害と避難(所)』のテーマ記事となります。
今避難生活を送っている人を傍目にこうした記事を書くことは少し憚られましたが、私自身の反省を込めて、今後も書いていけたらと思います。
改めて、この度の地震・津波で犠牲になられた方々に謹んでお悔やみ申し上げるとともに、被害に遭われた方々に謹んでお見舞い申し上げます。みなさまが少しでもご無事に過ごせますよう、少しでも早く落ち着く日々が訪れますよう、祈るばかりです。
お読みいただきありがとうございます。
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