連続テレビ小説『おかえりモネ』を通じて考える東日本大震災・災害支援①(※NHKとは無関係です)
東日本大震災を背景にしたこの作品を通じて、東日本大震災や災害(支援)について考える記事を作成していきたいと思います。
今回は第一週「天気予報って未来がわかる?」の第一回を通じて、モネの登場する舞台についてや東日本大震災が起こった地域等について考えます。
連続テレビ小説『おかえりモネ』(以下、『おかえりモネ』)を通じて東日本大震災や災害支援について考える。
記念すべき(なのか?)ひとつ目の記事を書きたいと思います。
ひとつ目は、第一週「天気予報って未来がわかる?」(第一回~第四回)の第一回を通じて考えていこうと思います。
第一回の概要を簡潔に載せたあと、概要に沿って感じたこと・ポイントとなりそうなこと、あるいは、体験や知識(あくまで私の経験・知る範囲であることをご容赦ください)などを書いていきます。
なお、『おかえりモネ』の人間関係などについての概略(名前や関係性など)は大雑把にご理解いただいた上でお読みいただけた方が読みやすいかと思いますので、まとめられているこちらをご参考ください。
第一週第一回の概要
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嵐の中で生まれたモネ
第一週第一回は、1995年9月、『おかえりモネ』の主人公である永浦百音(以下、モネ)が生まれようとしているシーンからはじまります。
モネの実家がある気仙沼市「亀島」は、離島という特性から本土へは船でしか向かうことができません。
大きな病院は本土にしかないため、出産は本土で行わなければならない宿命である中、モネが生まれようとするタイミングは奇しくも台風が来て海が大荒れとなっているときでした。
船を出せるかどうか…でも出産が近づいている…。
そうした中で、モネの父である永浦耕治(以下、こうじ)は、古くからの付き合いである凄腕漁師の及川新次(以下、しんじ)に電話し、「本土まで船を出してくれ」と必死でお願いをします。
しんじはそれに応え、こうじの妻でありモネの母である、永浦亜哉子(以下、あやこ)を本土まで送り届け、無事にモネは生まれることができました。
昔も今も人は天候に命運を左右されながら、それでもなんとかかんとか生きてきました
そんなナレーションが入り、『おかえりモネ』の物語が描かれていきます。
※ナレーションはモネの祖母にあたり、2013年ころに亡くなったとされている永浦雅代(以下、ナレーションもしくはモネのおばあちゃんと表記します)がカキになって生まれ変わって、モネたちを見守っている設定となっています。
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登米市で生活を送るモネ
場面は一気に2014年の5月へ。
舞台も気仙沼からは少し内陸にある登米市となります。
モネはモネの祖父である永浦龍己(以下、たつみもしくはモネのおじいちゃん)の知り合いで登米市の資産家である新田サヤカ(以下、サヤカさん)のもとへ下宿していました。
モネは2014年の春から登米市でサヤカさんがボス(土地の(元?)所有者であり経営者)である森林組合に就職をしていたのです。
森林組合は「みんなの山と森を守るのが仕事」であり、モネは海で生まれ育って、山で働くことになったのでした。
ちなみに、サヤカさんは伊達家家老の子孫と言われている人で、周囲から「姫」と呼ばれています。
登米市はモネの故郷である亀島からはおよそ60キロ内陸に位置し、北上川の恵みを受けて農業林業畜産と豊かな土地が形成された地域です。
伊達政宗と縁のある武家文化の歴史あるまちで、モネの出勤する風景(ここくらいしか出てこなかったと思いますが)からは趣が感じられます。
また、漫画『サイボーグ009』や『仮面ライダー』で有名な石ノ森章太郎の出身地であることや、伝統的な能もあり、森林組合では「どちらがいいか?」の言い争いも起こっているような始末。
モネはこうした個性豊かな登米の人たちに囲まれて過ごしていくこととなります。
一方で、春から下宿を始めたモネを心配するこうじは、サヤカさんに電話をかけ、モネに戻ってきてほしくて仕方ないといった様子を見せます。
こうじの姿を見ているモネの妹、永浦未知(以下、みーちゃん)は「就職して島出ていくなんて当たり前のことじゃん」とあきれ顔。
少しずつモネの家族の様子が映し出されていき、モネのおじいちゃんはカキの養殖をしており、若いときは遠洋漁業の漁師でマグロ船にも乗っていたそうで、海に生きる男として生活をしてきたことが描かれます(そのカキにモネのおばあちゃんは生まれ変わっているということと思われます)。
そんな家族の場面から、再び場面はモネのいる登米市へ。
そこではサヤカさんがモネに「山に行くよ」「木のこと教える」と告げ、雨の中、ふたりで登山をすることになっていました。
登山中に、足を滑らしたモネ。そこである回想シーンとなります。
そのシーンは、モネが家族に向かって「島を離れたい」と話をするシーンでした。
あやこは「なんで今すぐうち出たいなんて…」と返事をするも、それでもモネは「とにかく私はこの島を離れたい」と言う。
そんなシーンが少し映り、第一回は終わるのでした。
東日本大震災が襲った三陸地方のこと―繰り返し起こる津波災害―
第一回では明確に描かれてはいませんが、『おかえりモネ』は東日本大震災を背景においた物語となっています。
モネたちの暮らしていた気仙沼市は実際に東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地域でした。
岩手・宮城・福島を中心に太平洋沿岸部で甚大な被害をもたらした(北海道・青森・茨城・千葉などにも被害をもたらしましたが、上記を被災三県などと呼びます)東日本大震災。
正式名称は「東北地方太平洋沖地震」と呼ばれていますが、東北地方太平洋沖というエリアは、昔から「三陸沖」と言われていることをご存じでしょうか。
「三陸」という地名は、明治時代に作られたもので、陸奥(むつ)国を明治の新政府が陸奥(りくおう)・陸中・陸前・磐城(いわき)・岩代(いわしろ)と五分割し、そのうちの三つの陸がつく国の総称とされています。
これは今の青森・岩手・宮城三県とほぼ同じ範囲を示しており、「三陸海岸」とは青森県の八戸市鮫町から宮城県石巻市万石浦を指し、その海岸線を含む市町村のことは「三陸地方」と呼ばれています(岩手県立博物館開館40周年記念特別展 みる!しる!わかる!三陸再発見 参照)。
モネのおばあちゃんのナレーションに
昔も今も人は天候に命運を左右されながらそれでもなんとかかんとか生きてきました
という言葉がありましたが、その言葉は三陸地方が昔から災害が多い地域であることを物語った言葉だと言えるでしょう。
三陸地方は、地震や津波はもちろん、冷害や干ばつによる飢きん、大火、台風や高潮による水害、そして疫病などなど、数々の災害を経験してきました。
モネの生まれるシーンは台風による時化(シケ)が描かれていましたが、海での海難事故も一種の災害と考えられるでしょう。
三陸地方(に限らずと思いますが)では今も時折海難事故についてのニュースを耳にし、海への畏敬の念を抱かせます。
こと津波に関していえば、東日本大震災は1000年に一度と言われていますが―原発事故などの複合災害という意味ではおそらく1000年に一度なのだろうと思いますが―三陸地方は実はこれまでにも何度も大きな津波を経験してきました。
有名なところで言うと、明治29年(1896年)に起こった三陸沖地震津波(明治津波)、昭和8年(1933年)に起こった昭和三陸地震津波(昭和津波)、そして、昭和35年(1960年)に起こったチリ地震津波(チリ津波)が上げられ、2011年の東日本大震災も入れると、だいたい30年~50年程度で大きな津波に襲来されていることがわかります。

岩手県陸前高田市 広田半島にある過去の津波の高さが表示された階段

同上 この地区の明治津波の高さ

同上 明治津波の高さから海を見た景色(東日本大震災はこの地区においてはこれよりも少し低い)
東日本大震災後に復刊された山口弥一郎の『津波と村』という著書では、三陸地方のことを「津波常習地」という言葉で記しており、そのことについて、モネの舞台である気仙沼市出身の民俗学者川島秀一氏は「常“襲”地」ではなく「常“習”地」という漢字が使用されていることをこのように言っています。
常習地の習うは慣れるにも通じ、津波を生活文化の中に受け入れている積極的な意味合いの言葉であると思われる。それは、三陸沿岸に住む者の心に即した言葉であり、自然に対して無理に対立したり、避けたりすることではなく、飼い慣らしていく発想でもあった。
津波災害の多い三陸地方では各地に津波に関する石碑が設置されていたり(すべての人ではありませんが)海に向かって祈る習慣を持って暮らす人、海を眺めて生きる人がおり、自然の恵みに感謝し、同時に、祭りや伝統芸能を通じて畏敬や鎮魂をするなどといった、まさに人がコントロールすることのできない「自然」を前にした地域の営みのようなものが見受けられます。
モネの経験や『おかえりモネ』で描かれる物語の中に、こうした度重なる災害の歴史といった背景があることを思うとまた、少し違った見え方があるかもしれません。
東日本大震災は度重なる災害の中に起こったことであり、そうした地域の文脈から災害(支援)を理解していくことが重要であると私は考えます。
気仙沼市大島のこと
モネの生まれ育った「亀島」は、正確には気仙沼市「大島」を示していると考えられます。
大島は東北地方で最大級の有人離島であり、大島出身の詩人である水上不二は大島のことを「緑の真珠」と詠むなど、美しい景色・自然環境が広がる島です。
大島には亀山という海抜235m程度の山があり、この名前がモネの生まれ故郷を「亀島」という地名にした所以でしょう(おそらく)。

気仙沼大島 亀山より全景

亀山
モネが生まれるシーンでは、大荒れの海の中を船で本土に渡るしかない様子が描かれていましたが、実際の大島も当時は本土への移動手段は船しかありませんでした。
このことは東日本大震災の被害を特殊なものにし(大島のことや震災については後々の記事で少しずつ書いていく予定です)かつ、海との暮らしが切り離せない地域で起こった災害であるということを地域で暮らす方々はもちろん、私たちにも突きつけました。
ところで、気仙沼市は宮城県の最北東に位置する地域で、フカヒレやカツオの水揚げが日本一といった海産物に非常に恵まれた地域です。
大島でももれなくおいしい海産物が採れ、私は大島で生まれて初めて舟盛に出会い、マンボウやホヤなどといった見たこともなかった海産物に出会ってきました。
日本酒好きな私が日本酒を好きになったのも東北とご縁を得てからであり、それらと日本酒が合うこと合うこと…(唐突に下世話?な話をすみません)。
話を戻しまして、『おかえりモネ』ではモネのおじいちゃんがカキの養殖を営んでいる設定となっていますが、気仙沼・大島ではカキの養殖が盛んで、海には多くのカキ棚を見ることができます。

右下の方に見えるのが(おそらく)カキ棚
カキの養殖業を営む畠山重篤氏によると、気仙沼湾でのカキの養殖は大正時代に導入されたようで、
良質で安全度の高い(細菌の少ない)カキとして全国的に人気があります。
と綴られています。
この記載は2001年のものであり、社会情勢の変化や繰り返し津波災害を経験していることなどから海の環境は大きく変わっていると思われますが、大島では島内にある大島神社に「カキ養殖先覚者顕彰碑」があり、そこにはこう書かれているようです。
昭和五(一九三〇)年に気仙沼湾内でカキ養殖に成功してから、この養殖業は発達をし続けた。昭和四二(一九六七)年には、経営体数七五二戸、養殖施設四八九一台、延縄式施設八五一台、その生産量は一六〇トンに達している。
このことから、大島においてもひとつの大きな産業として位置づけられていたことは間違いないと言え、そもそも「三陸の海」は寒流と暖流の潮目にあたり、豊かな海産物が採れる世界三大漁場と言われています。
海との暮らしが切り離せないと書きましたが、三陸地方の人々の暮らしは海によって支えられていると言っても過言ではないのではないかと私は思います。
そんな豊かな海の中のカキにモネのおばぁちゃんが生まれ変わり、家族を見守っているという設定は、海に生かされ、海に帰っていくというような暮らしも思わせます。
ちなみに、こうじがモネに「島に戻ってきてほしい」と思っている理由はいくつかの視点から書くことができますが、その様子を見てモネの妹であるみーちゃんが言った「就職して島出ていくなんて当たり前のことじゃん」という言葉はまさに実際の大島でも「当たり前」となっています。
大島には中学校までしかなく(それも今後合併などの道を辿ることを聞いています)早い人では高校生の段階で島外・市外・県外に出る人もいます。
物語の中心に置かれている、今回出てきたモネの回想シーン。その中の「とにかく私はこの島を離れたい」というモネの言葉は(これもまたいくつかの視点から考えられますが)島を出ることが「当たり前」の生活であることや、幼稚園から中学校までずっと同じ人間関係で過ごす宿命である島(など)の特殊性という視点から見ても、決して珍しくないセリフのようにも私は思ったりしていました。
もちろん、この言葉の意味はそうした視点(だけ)ではないことはみなさんもよくお分かりのことと思いますが、災害(支援)を理解するうえで、「地域の内側」でどのような暮らしが営まれているかという視点を持つことは、とても重要なことと言えるように私は思います。
登米市のこと
これまでにも書いてきたように、登米市は気仙沼市からおよそ60キロほど内陸に位置する地域で、同じ宮城県内に位置するまちとなります。
復興事業で通った三陸復興道路がないころは、登米市を経由して私はよく移動をしていたため、よく道の駅『林林館』を利用していたというのはわかる人にはわかる類の話かもしれません(大型の事業によって触れられなくなっていくものがあることも今後書いていくことになると思います)。
モネは登米市の森林組合で働いていますが、上記のような名前の道の駅があることからもわかるように、実際の登米市も森林が豊かな地域です。
これからそうした場面が出てきますが、食事もおいしい地域で、個人的には『登米のだし』をよく愛用させていただいておりました(これもまたわかる人にはわかる類かもですが)。

登米市にある『もくもくハウス』
登米市のことは正直なところ、ゆっくりと滞在した経験が私にはあまりないため、ドラマで描かれているような「武家文化の歴史あるまち」ということについてはほとんど知りませんでした。
登米市と言えば山に囲まれ、北上川という大きな川に面した地域という印象が強く、また、ドラマ内で揉めていた(笑)石ノ森章太郎の出身地という印象です。…で、これまた正直なところ、石ノ森章太郎は『石ノ森萬画館』が石巻市にあるため、「石巻にもっていかれている」感を私も抱いています(ごめんなさい)笑。

左側にある白いドーム状の建物が石ノ森章太郎萬画館
『おかえりモネ』の中では登米市にいるサヤカさんが伊達家の子孫という設定となっていましたが、これは私としてはとても興味深い設定でした。
というのは、私が東日本大震災後に関東から東北に移住してきて、よく「藩」について話を聞いてきたためです。
宮城県から岩手県の一部にかけては「伊達藩」であり、その他の岩手県(大半)は「南部藩」であることをみなさんはご存じでしょうか。
私は関東にいる頃は全くと言っていいほど知りませんでしたが、今では常識となっています。
「伊達は派出で、南部は地味(とか書くと怒られてしまいますかね)」などという話を聞くことはよくあることで、こうした話を聞くといつも、地域の独自の歴史・文化が継承されていく世界で生きる感覚を抱きます。
このことは私にとっても、災害復興においても、とても重要な要素であることを感じてきたので、どこかで触れるかもしれません(それが排除や抑圧を生む可能性を含めて)。
このように『おかえりモネ』では、様々な細かな設定に至るまでとても重要な要素が含まれているように私には感じています。
カキの養殖を営むおじいちゃんの知り合いとして、山のボスであるサヤカさんのもとにモネが下宿に行っていること。
また、サヤカさんが「木のことを教える」と言って山に登る場面そのものがあることなども、『おかえりモネ』が届けるメッセージを深く理解するうえで大事な設定であるように感じており、今後こうしたことについても触れていきたいなと思っています。
なお、登米市の場面の一番最初、モネが初めて出演するシーンは洗濯物を干すシーンでした。
そこでモネは空の写真を撮りながら、天気予報で雨の予報を聞くといったところからはじまっていて、このシーンも『おかえりモネ』の物語を象徴する伏線?匂わせ?のようなものであったのかなぁなんて思わされもするのでした。
第一回では、『おかえりモネ』のシーンや言葉などに注目しながら、三陸地方が繰り返し災害を経験してきていることや、モネの舞台であるそれぞれの「地域」について触れてみました。
東日本大震災や災害(支援)について、具体的に言及するものではありませんでしたが、地域や暮らしを理解するということはとても重要なことであると考えられます。
今後も『おかえりモネ』の内容に沿いつつ、東日本大震災や災害(支援)の理解が少しでも深まるような記事を私なりに書いていくことができればと思いますので、よろしければお付き合いいただけたら幸いです。
そういえば、菅波さんも初めて出てきますが、改めて不愛想具合がすごいなと思ったことも最後に書いておきます笑。
なお、この第一回のこの記事は「誰でも」読めるようにしましたが、今後は読者限定でと考えています。また、スレッド機能にて、感想や質問等を募集しましたので(これは有料読者限定で利用できるもののようですが)もし何かありましたらそちらからお願いできればと思います!
次回(のこの連載記事)は第二回を通じて東日本大震災や災害(支援)について考えていけたらと思います。
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