災害ボランティア・支援活動のはじまりー都内での支援物資の管理作業の手伝いー活動記録②
埼玉で東日本大震災(以下、震災)を経験した体験談については以前こちらで書いた通りです。ここではその続きとして「災害ボランティア・支援活動のはじまり」を綴りたいと思います。
上記の記事で、私が震災後にNGO団体であるJENと連絡を取り合い、都内での支援物資の管理をしてほしいと依頼されたことを書きました。
その時は「私がそんな仕事をしてもいいのだろうか」と正直思いましたが、できる範囲でお手伝いをさせていただくことにし、その依頼を受けたというところまでは書いた通りです。

※実際に私が関わった輸送車・支援物資を管理した場所ではありません。
支援物資の管理に関わって
そのお手伝いに取り組むことになった私は、埼玉から電車でおよそ1時間ほどのところにあった支援物資を管理する倉庫に通う生活を送りました。震災後すぐに支援物資の募集を開始していたJENでは、倉庫の運営はもちろん配送作業も順次速やかに行っていたため、私はその補助的な位置で関わることになりました。
実際に私が倉庫で行ったのはトラックなどで運ばれてくる物資を降ろし、中身を確認し、物資ごとに仕分けをし、現地に送るという作業でした。ひっきりなしに荷物が届くといったわけではありませんでしたが、一度にトラックで運ばれてくる段ボールの数は相当なものであり、忙しくなる時は一気に忙しくなるし、そうではないときはちょっと手持ち無沙汰になるといった感じでした。震災後「現地に行きたい」という気持ちが頭の中にずっとあった私にとっては、この仕事はどこかもどかしさを覚えることもあったように記憶しています。
「記憶しています」と書きましたが、実を言うと、この作業についても正直あまり詳しく覚えていません。。どういうわけか、倉庫の近くの駅名や近くに公園があったことなどは覚えているのですが、どの程度作業をしたか、何時から何時ころまで活動をしたかのあたりはすっかり抜け落ちています。私自身ハイになっていたということなのだろうと思いますが、その当時はそういった知識すらほとんどないままに、ただただできることを…と必死になっていたのかと思います。
ただ、私の中で強烈に覚えているのが、こうした地道な作業をする人がどれだけいて、それがどれだけ大変であり大事なことであるかと思ったことでした。また、この作業のゴールは「現地に必要な物資が届き、有効に使われること」であるため、それを機能させるためにどれほど「情報」が大切であるかについても思い知らされました。
このことは現在コロナ禍で「エッセンシャルワーカー」と呼ばれる方々にようやくスポットライトが当てられた(その後当てられ続けているかはあやしいですが…)時に感じたリスペクトと近い感覚でした。「情報」についても同様で、正確な情報がどれほど重要であるかを感じたことは言うまでもありません。
そうしたことを日々感じながら(当時はこのように言語化はできなかったと思いますが)この倉庫にはトータルで一か月近く通い続けました。一か月近く通ったという記憶があるのは、JENによる「現地ボランティア募集」が震災からおよそ一か月で開始されたことを覚えているためです。「現地に行きたい」と思っていた私にとってその知らせは強い衝撃を持って耳に入り、すぐにでも現地に行こうと思ったのですが、倉庫での仕事を途中で投げ出すわけにはいかないという葛藤が私の中にあったことを記憶しているのでした。結果、4月の3週目頃まで支援物資の管理のお手伝いをし、その翌週に初めて私は現地へ訪れました。
すぐに現地に行かなかった理由
次回から現地での実際の活動の記録について(反省的に)綴っていこうと思いますが、その前に「別にJENが現地募集をしなくても自力で行けばよかったじゃないか」と思われた方もおられるかと思うので、この辺少し書いておこうと思います(別でコラム的にも書くことがあるかとは思います)。
震災当時、現地に行くにはいくつかの大きな障壁がありました。私にこれまで災害ボランティア・支援の経験がなかったことや、現地の土地勘が全くなかったということはもちろんありますが、震災の被害があまりに広域で甚大であり、全貌が見えずにいたことが大きくありました。どこに行けばよいかが(素人の)私には全くわからないだけではなく、原発事故の影響で、どの程度東北エリアに向かうことができるのかも当時はわかりませんでした。「被災地」は車でないと行けないエリアであり雪も降る地域であったことから、運転や雪道に慣れていない人が行くことには危険が伴うことなどもありました。ガソリンの供給が途絶え、ガソリン不足が深刻な問題になっていたことも現地に行けなかった・行かなかったひとつの理由です。
それでもこれらは「言い訳」で「行こうと思えば行くこともできただろ」と言われればその通りとも言えるのですが、私が当時思っていたのが「被災地」にすぐ入るべきは、「被災地」や東北に縁のある人や支援経験の豊富なプロだろうということでした。
東京一極集中の日本社会においては、「被災地」や東北は誰かの「帰る」場所であることは想像するに難くありません。私の大学の友人の中に、東北出身で「上京」してきた人が何人かいたこともそれをすぐに私に思わせました。また、水も電気も止まっている中でできることなど(特に素人には)限られており、ガソリンだけ奪って帰ることになってしまうと考え、プロに任せるのが一番であるという判断をしたところでした。
当時の私がここまで言語化できたかどうかというとあまり自信がないのですが、一度冷静に考えた結果、関東でまずはできることをしようと判断できたことは今思えばよかったと思っています。実際問題、当時のボランティア募集の多くは「炊き出し経験のある団体・人に限定します」という文言があるものでした。ボランティア経験も知識もなかった自分はそもそも参加できない立場だということをどこか情けなく、また悔しく思った記憶もあります。
ちなみに、被害の規模が限定的であったり、コロナ禍のような感染症が重なっている状況であるときには、ボランティアの募集対象を「地元の方」限定にしたり、専門的技術がある人限定にして募集していたりすることもあります。このあたりはまたコラム的に書こうと思います。
このような経緯を経て、「現地ボランティア」での活動へと私は移っていくことになりました。JENによる「現地ボランティア募集」がかかった震災から一か月後頃には、「被災地」以外のいわゆる「世間」は、なんとなく落ち着きを取り戻し始めている頃であり、私の大学院生活もはじまっていました。私は大学院生活と並行しながら、支援物資管理のお手伝いと現地へ行く活動に取り組むようになっていきました。
学内においても震災のことや災害ボランティアに関する講演が行われていたり、今後書いていきますが、支援活動体制の準備が整備されていったりと特別な動きがあり、私はそうした動きにも関与させてもらっていきます。
以上が、私の「災害ボランティア・支援活動のはじまりー都内での支援物資回収および郵送に関する管理作業の手伝いー」となります。
支援物資の作業についての詳細が少なくなってしまいましたが、それは記憶やメモがないこともそうですが、今後、コラム的な形で「支援物資」に関することを記事にしようと考えているためでもありました。どうかご容赦頂ければ幸いです。
次回の体験に関する記事は「はじめての現地での災害ボランティア」の経験等について綴っていきます。応援いただければ幸いです。
※私の経験に関する記事と「被災者」の方の声などを中心にする(多く反映される)記事は有料のものとさせていただいております。今回の記事を一般無料公開としているのは、あまり詳細に触れておらず、さわりに過ぎないためでした。よろしければ無料登録(もちろん有料購読もうれしいです)いただければ幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
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